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AI時代の国語

 生成AIというものが開発されて、驚異的なスピードで進化しています。たとえば、国語の分野でいえば、作品を鑑賞・批評するだけでなく、AI自らが作品を創作出来るレベルに迫ってきており、実際創作に生成AIを活用している作家もいるように聞いています。実際、私も自分が詠んだ俳句や短歌をAIに批評してもらったことがありますが、かなり的確な批評をすると感じたことがあります。もっともAIは相談相手を傷つけないようなプログラミングがされているようで、基本的に肯定的な批評しかせず、否定的な批評はほとんどありませんので、そのあたりを差し引いて受け取る必要はありますが・・・。
 もちろんAIは国語という教科にも活用が出来て、知らないことばを調べる辞書代りにもなりますし、自分の書いた文が文法的に正しいか判断してもらうことも出来ますし、さらには文章の要約もしてもらえます。私はまだ試したことはありませんが、おそらく入試問題を読み込ませれば模範解答も作れると思います。国語に限らず、他の教科でも問題の正しい答えを得るということだけなら、AIを使えばいとも簡単に得られる時代である(あるいは早晩そうなる)と考えてよいかと思います。
 では、こんな時代に国語を学ぶことの意義はなんでしょうか? 別にことばの意味など覚えなくてもAIに尋ねれば教えてくれます。文章を書くことさえAIに任せることができます。問題だって解いてくれます。
 それを考えるヒントは、AIに出来ないことは何かと考えることではないかと思います。まず認識しておきたいのは、AIがどんなに見事な鑑賞をしようと、どんなにすばらしい創作物をつくろうと、その原点に『感動』はないということです。AIは心を持っていませんから、何かに感動して作品を生み出すわけでも、作品を鑑賞するわけでもありません。教え込まれた膨大なデータをもとに、批評(らしきもの)をつくったり、文学作品(らしきもの)をつくったりしているのです。
 それは場合によっては、人間のつくる創作物や批評文以上に質の高いものである可能性もあります。ましてや何かの判断ということにおいて、人間よりもAIのほうが正しいということはこれからますます増えていくでしょう。しかし、人間は論理だけで動いているのではありません。感情で動くのです。だからこそ、いろいろな失敗もしますが、ときに論理で考える以上のものが得られ、それでこそ生きる幸せもあるのだと私は思います。
 その感情を育てるのが国語という教科です。考える力ということに関しては数学や他の教科も十分にそれを培うものだと思いますが、こと感情の養成に関しては国語が抜きん出ます。
 人間が社会というものの中で生きていくかぎり、自分以外の人間の感情を推し量ることや自分の感情と向き合わねばならないことは避けて通れないことです。一人の人間ができる体験は限られており、さまざまな環境にいる他者の感情を自らの体験だけを頼りに理解するのは到底無理です。国語という教科は、自分が生きられない他者の人生を間接体験し、さまざまな人間の心を理解する力を培うものだと私は考えています。
 国語の分野でもAIが人間に代わることができるから国語が必要なくなるのではなく、むしろAI時代こそ国語が必要になる、私はそう信じています。       

2026-02-07 17:30:43

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国語の成績が下がる前に

 日曜日の夜、小6の生徒から智辯学園和歌山中学校に合格したとの知らせがありました。今年当教室で中学受験をしたのは、この生徒だけだったので、ひとまずほっとしました。ただ、大切なのはむしろ合格してからです。
 これまで指導してきた中高一貫校に通う生徒たちの中には、小学生の頃から国語が苦手だったという生徒が少なくありません。もちろん苦手だから、国語専科である当教室に通ってくるわけで当り前といえば当り前です。
 問題は、そういう生徒たちが当教室に通ってきてくれるのは、たいて中3とか高1とか高2とかになってからだということです。それが中1・中2のときの国語の成績はまずまずで、中3や高1になってから落ちてきたので塾に通うことにしたというのなら仕方がありません。しかし、話を聞くとたいてい中学受験のときから国語が苦手で、中1・中2のときも苦手で、これはもうなんとかせねばならないとなって、やっと塾に来ることにしたという生徒が多いのです。もちろんどの段階から来てくださっても、当教室は受け入れますし、精一杯指導します。ただ、希望を言うと、できれば中1か中2から指導させていただけると有難い。というのは、中高一貫校では中3から高校段階の授業にはいり、古文・漢文の授業が始まる学校が多いからです。
 いままで指導してきた生徒の中で、現代国語は苦手だけれど古文・漢文は得意だという生徒はほとんどいません。それは当然で、口語という私たちが普段遣っていることばを土台として、古典といわれる昔のことばを理解するわけで、現代国語が苦手だということはその口語の土台がしっかりしていないということですから、現代国語ができなければ古典はできなくて当り前です。
 それでも古典の授業が始まれば、当教室での授業時間の半分は古典にあてざるを得ません。現代国語が苦手な生徒は古典の家庭学習となるとさらに手をつけませんから、塾で教えないと学校の授業を受ける以外ほとんど勉強しません。そして、大学共通テストでの古典の比率は現代国語と同じですから、古典の出来が悪ければまず目標とする点数には届きません。
 親御さんにしてみれば、中学校に入学して環境も変わったことだし、学校の様子も分からないし、中学受験までずっと塾に通い詰めだったから、入学したら塾通いのない生活をさせてやりたいということかもしれません。しかし、理想をいえば中1・中2で現代国語の基礎固めをしておいて、それから現代国語と古典を平行して指導させていきたいのです。
 中学受験に合格したから「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではいけません。以前指導した生徒で京都大学の工学部に合格した生徒は、国語が苦手というほどではなかったけれども中2から高2まで当教室に通い、高3のときに理系教科を中心に学習するために当教室を卒塾しました。そのような見通しをもって塾を利用されることをお勧めします。
 あるプロ棋士(プロの将棋指し)がこんなことを言ったそうです。「プロは局面が悪くなる前に考える。素人は局面が悪くなってから考える」ある程度自覚があるなら、成績が極端に下がる前に手をうつべきではないでしょうか。
 なお、念のため付け加えておくと、今回合格した生徒はけっして国語ができない生徒ではありません。中学に入ってからも油断せず、しっかり授業を受け、自学してくれれば国語に足を引っ張られるということはないでしょう。なんにせよ、本当の勉強はこれからです。
おめでとう。そして、さらなる精進を願っています。

2026-01-24 14:34:10

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読解問題を解くとは?(3)

 『読解問題を解くとは?』の第三回目です。今回でこのテーマをおしまいにいたします。
 第一回では、読書と読解問題の違いについて述べました。読解問題は読書と違い、指定された文章を一定の時間内で読まないといけないということを述べました。第二回目では、読解問題の文章は「切り取られた文章」であり、前書きや注も丁寧に読む必要があるということを述べました。いずれも漠然と文章を読むのではなく、意識的に読むことが大切だということを再度確認して、今回の第三回目に進みましょう。
 第一回目の本文、第二回目の前書き、注とともに読解問題を解くときに読まないといけないものが「設問」です。本文が「切り取られた文章」だとすれば、前書きは「あらすじ」や「要約」、注は「補足説明」、設問はいわば「作業指示」のようなものです。読解問題を解くときに、本文や前書き・注を丁寧に読むことはもちろん大切ですが、私はこの設問を読むということが非常に大切だと考えています。
 しかし、前書きや注と同じく、この設問を読むということを多くの生徒たちはおろそかにしているように思います。「~とはどういうことか?」「~なのはなぜか?」など設問の文章というのはどれも似たり寄ったりなので、もう分かっているつもりになっているのでしょう。それが落とし穴です。当教室の生徒たちの答案を見ても、設問の読み落としのために取れるべき点数を落としているのはもちろん、設問をまったく読み違えて見当外れの解答を書いていることも少なくありません。
 私の場合、本文、前書きや注と同じく、設問にもマークをつけながら読んでいます。たとえば、設問の指示が「抜き出せ」なのか「本文中のことばを使って答えよ」なのか、「〇〇字」なのか「〇〇字程度」なのか「〇〇字以内」なのか。「説明しろ(どういうことか)」と言っているのか、「理由(なぜか)」を問うているのかなど、線を引いたり〇で囲んだりして、意識づけをすることで、ケアレスミスをなくすためです。
 最後に、設問というのは解答者を悩ますものであると同時に、本文を読むためのヒントでもあります。そこが設問になるということは、そこが大切だということです。よく出来た問題は、設問を解きながら読むことでその文章がより深く理解できるようにつくられています。もし設問がなければ読み飛ばしていただろう箇所が、設問によって意識され、それによって自分では気づいていなかった文章のもう一つの側面に気づかされるという良さも、読解問題にはあるのです。
 読解問題を解くことは、楽しみという点では読書には及ばないかも知れませんが、文章の読みに多角的な視野をもたらしてくれるという利点もあるということを、生徒の皆さんには知ってもらいたいです。

2026-01-10 14:51:41

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あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。
毎週、土曜日更新してきたブログですが、本日はお休みとさせていただきます。
それと、今年は更新のペースを毎週から不定期とさせていただこうと考えております。
毎週読んでくださっていた方には申し訳ありませんが、なにとぞご寛容を・・・。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 

2026-01-03 18:02:24

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読解問題を解くとは?(2)

 『読解問題を解くとは?』の第二回目です。今回は「読解問題の文章」と「通常の文章」の違いについて見ていきましょう。
 まず意識してほしいことは、「読解問題の文章」は、「全体の一部分を切り取った」文章であるという点です。例えば、小説問題なら山場の場面の文章だけが切り取られているといった具合です。通常の読書なら、読み進めていくうちに小説の舞台や登場人物についての情報を順次頭に入れていって、そこから山場の部分を読むことになります。それに対して読解問題では、それまでのあらすじや登場人物についての簡潔な説明(前書き)があって、いきなり山場の文章を読むことになります。それぞれの登場人物の関係や状況は前書きかあるいは本文のあとに加えられている補足(注)から把握する以外に方法がありません。「切り取られた文章」を読み解く難しさはそこにあります。
 しかし試験を作成した人は、その切り取られた部分+前書き+注を読めば、設問に答えられると判断しているわけです。逆にいえば、作問者は、「前書き」や「注」を補足しないと問題が解ききれないと考えているということにもなります。なのに、この前書きや注を「付け足し」ぐらいに考えて、丁寧に読めていない生徒たちも多いのです。前書きや注の情報がなければ解けない問題を、本文だけ読んで解こうとするわけですから、正しく読み解けないのは当り前です。
 説明的文章では、文学的文章ほど前書きや注は多くありませんが(前書きについてはほとんどありません)、文章が切り取られているという点は同じです。もちろんこの場合も、その部分だけを読めば設問に答えられるように問題が作られていることに変わりはありません。(とはいえ前提となる知識は必要ですよ。漢字が読めなかったり、ことばの意味が分からなかったり、常識的なことを知らなければ、問題文を理解することも設問に答えることもできません)
 これもまた「読書」と「読解問題を解く」こととの大きな違いです。「読解問題の本文を読む」ということは、「切り取られた文章」を読むということなのです。
 くり返しますが、「切り取られた文章」を読み解くためには、前書き、本文、注、設問のすべてを手がかりとして、本文を読み解いていかねばなりません。しかも、通常の読書ならば、時間をかけて読み進めていくうちに自然と頭に刷り込まれる情報を、読解問題では短い時間で着実に頭に刷り込む必要があります。そうしなければ試験時間内に問題を解ききれません。そのためには、本文や設問のポイントにマークをつけて(線を引く・囲む等して)、必要な要素をしっかりと頭に刷り込むことが大切です。評論文ならば、筆者の主張、根拠、具体例など、小説なら出来事、登場人物の心情、反応など、設問とかかわりそうな部分にはもれなくチェックを入れていきます。設問にも、それが説明問題なのか(「どういうことか?」という問い)、理由問題なのか(「なぜか?」という問い)といったところにマークをつけ、さらに解答の指示が「抜き出せ」なのか「文中のことばをつかって答えよ」なのかといったところ、字数(~字なのか、~字以内なのか等)を囲みます。「意識的に読む」とはこういうことです。
 今回も第一回目と同じ締めくくりになりますが、漠然と文章を読んだのでは、読解問題は解けるようにはなりません。「意識的に読む」ために、文章や設問のポイントにマークをつけながら読むことを習慣づけてください。

2025-12-27 13:20:23

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読解問題を解くとは?(1)

 前回は「国語は成績をあげるための手段ではない」ということを書きました。とはいえ、このブログをお読みいただいている多くの方が関心をお持ちなのは、やはり教科としての国語、もっといえば国語の成績だと思いますので、今回から国語のテスト、中でも問題の大部分を占める読解問題について考察します。
 そもそも読解問題を解くとはどういうことなのでしょうか? これを考えるためにまず「読書」と「読解問題を解く」ことの違いを見ていきましょう。
 読書は自分で読みたい本を選べます。いつ読むか、どこまで読むか、どのくらいの時間をかけるかすべて自由です。じっくり味わって読むこともできるし、面白くなければ途中で止めることもできます。もちろん読書の仕方が点数化されることもありません。
 それに対して読解問題は、学校や業者から指定された文章を読み、設問に答え、その答えの妥当性が点数化されます。自分で問題集を解く場合を除いて、問題を解く場所も時間も決められています。じっくり文章を味わう時間もなければ、途中で止めることもできません。
 料理に例えてみると分かりやすいでしょうか。読書というのは、料理を食べて、「おいしい」とか「まずい」とか感じることです。気に入れば、同じ料理を何度食べてもいいし、じっくり時間をかけて味わうこともできます。気に入らなければ残すこともできます。一方、読解問題を解くというのは、料理を食べて、「どんな材料が使われているのか」「どんな調味料がつかわれているか」「なぜおいしい(まずい)のか」などを考えることです。記述問題というのは、この料理のおいしさ(まずさ)の理由を自分のことばで説明しなさいといったところでしょうか。
 そうなると、何が必要でしょうか? 当然いろいろな食材(題材)・調理法(表現)に対する知識が必要です。調味料(助動詞や助詞)もきちんと判断できなければなりません。説明するとなれば調理技術(表現技術)も必要です。
 ごくごく大雑把に言ってしまうと、読書は「食事」、読解問題を解くのは「食レポ」です。ただ「おいしい、おいしい」と料理を食べるのと、その料理のおいしさを伝えるのは質の違う行為なのです。
 では、どうしたら上手な食レポができるようになるでしょうか? 
 まず、料理を食べたら常に「どんな材料や調味料がつかわれているか」「どんな調理法か」などを考え、それを確かめることです。(これは主に学校の授業にあたります)次に、自分のことばでそれを説明することです(これは自学や塾での学習にあたります)、そして食レポをしてその料理の特徴やおいしさがちゃんと伝わっているか反応をみなければなりません。(これがテスト)
 国語のできる人は、こうしたことをくり返し行っている人です。中でも料理を食べたら材料や調味料や調理法を考えるということは、無意識に近い形で常に行っていると思います。これは普段の食事でも自分の頭の中で食レポを行っているようなものです。
 漫然と文章を読んでいるだけでは、読解問題が解けるようにはなりません。「意識的に読むこと」のくり返し。これが、読解問題が解けるようになるための第一歩です。
 

2025-12-20 12:33:49

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国語は手段ではない

 「国語はすべての教科の根幹であり、国語ができないと他の教科の成績も伸びない」とは、よく言われることです。ただ、国語ができないと他の教科もできないから国語を学ぶべきというのは違うと思います。それでは国語は成績を上げるための「手段」であるということになります。
 例えば、魚を得るために、釣りをする、網をしかける、銛で突く、これらが手段です。ただ、単に魚を得るためなら、自分の予算とスキルと時間との兼ね合いを考えて、もっとも確率の高い方法を選べばいいわけです。そして、「志望校に合格する」というただ一匹の魚を得るのが目的なら、その一匹の魚を手に入れた時点で、釣り竿も網も銛も不要となります。だから、仕事や趣味で学んだ知識や考え方をつかう必要のない人は、「手段」として学んだことをほとんどわすれてしまいます。
 日常生活で、覚えた英単語をわすれてしまっても、数学の公式をわすれてしまっても、それほど困ることもないでしょう。国語だって同じではないか、難しい漢字などわすれてしまっても何一つ困ることはないではないかと思われるかもしれません。
 しかし、国語で学ぶ「ことば」というものは、人間が生きていくかぎり一生つかい続けるものです。人間は、ことばと無縁に生きていくことなどできません。仮に国語で学んだことばが志望校に合格するというただ一匹の魚を得るための手段だったとしても、それらを完全に捨てさることはできないし、生きているかぎり、こころという家には新しいことばが増え続けていきます。もしそれが不要だというなら、こころの家はごみだらけということになってしまいます。
 国語の学習というのは、そうしてこころの家に増え続けていくことばを、ごみの山にしないための勉強でもあると私は考えています。さらに言えば、「ことば」は、志望校に合格するという魚を得るためだけでなく、いろいろなものを得るためにもつかえるのです。考えてもみてください。友人を得るのだって、仕事を得るのだって、伴侶を得るのだって、ことばをつかうのです。もっとも伴侶については独身の私が言っても説得力はないかもしれませんが(笑)
 だから私は、国語はけっして何かの手段ではないと思っています。国語そのものが目的とは申しませんが、目的を果たしてしまったら価値を失うものではなく、目的を果たし終えてもなお価値を有するものです。もちろんこれは国語に限ったことではなく、英語にせよ数学にせよ、本来学びというものはそれ自体が価値をもつものでしょう。その意味では子どもだけでなく、大人が学ぶことにも大きな意義があります。何を学ぶか? もちろん私は国語をお勧めします。
 

2025-12-13 13:34:31

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経験にはタグ付けを

 国語の教材や試験で採用される文章には現在のリアルタイム(令和)の自然の風景や文物が登場することはほとんどありません。反対に現代国語であっても、平成どころか昭和もっと遡って明治の時代の知識がないと読めないものがたくさんあります。
 こうしたものをいまの子どもたちが知らないのは当然です。すでに子どもたちの親の世代でも、見たことも聞いたこともないような物や習慣が、文章の中にたくさん出てきます。
 理不尽に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは無理もないことです。例えば、自家用車でさえ一般的になったのは、わずか五十年ほど前のことに過ぎません。それまでは多くの人が自分の足で長い距離を歩いていたのです。スマートフォンなどという、いまでは当り前に使われるようになったものが登場したのも、ごく最近のことです。だから、そういった新しい時代の文物や習慣をテーマとしたり描いたりした文章で、子どもたちの教材とするにふさわしい、あるいは入試問題として妥当であるというような定評のある文章はまだまだごくわずかなのです。そうなれば、教科書に採用する文章にしても、入試に採用する文章にしても一昔前に書かれ、そしてすでに一定の評価がなされている作品となるのは仕方のないことです。
 つまり、いまの子どもたちが国語を理解するためには、歴史的ともいえる知識が必要だということです。もちろん私たち指導する側も折に触れて、こういった知識を子どもたちに説明はします。でも、それがあまりにも多すぎて授業の中だけでは追いつかないのが現状です。
 一方で時代が変わろうとも変わらない自然や習慣や文物もたくさんあります。月や星などの姿は、何千年も変わっていませんし、気候変動が大きいとはいえ、夕立だって時雨だって降るし、霜だっております。食べ物だって、昔から変わらず食べている物はたくさんあります。野球やサッカーなどのスポーツの基本ルールが変わったわけでもありません。
 しかし、こういった身の周りの自然や物、文化などについて驚くほど知識のない子どもも少なくないのです。例えば、「霜」を知らないという子どもがいて、スマートフォンで画像を見せて見たことはないかと聞くと「見たことがない」と言います。いくら温暖な和歌山だからといって、そんなはずはないと思うのです。では、なぜ知らないのか? それは霜を見たときに「これが霜だ」と教えられていないから、いわば経験に「名前」というタグ付けができていないために記憶に残っていないということだと私は考えています。   
 そこでお父様、お母様方にお願いです。少なくとも日常生活で体験する、自然現象、行事や習慣や使用する物などに関しては、できる限り「名前」を教えてあげてください。子どもがたくさんの物に触れ、経験を積んでも、それに「タグ付け」ができていなければ、記憶として定着しづらいし、まして知識として使えるものにはなりません。教室という限定された空間で画像や映像を見せたところで身につく知識など微々たるものです。子どもたちは日常のなかでその何百倍もの物に触れ、経験を積んでいるのです。それを知識に変えられるのは、学校の先生や塾の講師よりもむしろお父様、お母様方です。
 生活するうえで、学ぶうえで基本となる知識が常識です。家庭こそが常識を学ぶもっともすぐれた場所だと私は考えていますが、保護者の皆様はどうお考えでしょうか。

2025-12-06 15:41:46

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小論文について(4)

 小論文についての第四回目です。これで一応、小論文について記事を終了することにいたします。
 これまでは小論文とはどんなものかということと、そのためにどんな準備が必要かということでした。ならば、最終回はどう書くか、という話にしたいのは山々ですが、これは短いブログでは伝えきれません。基本的な考え方は同じですが、どんな出題形式か、字数はどれくらいかによっても書き方は違ってきます。
 そこで今回は、どう書くかの前提となる基本中の基本の確認といたします。
 第一は、文法的に正しい文が書けること。助詞や助動詞の使い方が不適切だったり、主語と述語がかみ合っていなかったり(いわゆる「ねじれ」があったり)、「なぜなら~からだ。」「まさか~ないだろう(まい)」などの呼応表現ができていなかったりといった文法的な誤りがあると、小論文としての評価はかなり割り引かれると考えておいたほうがよいでしょう。
 第二は、誤字・脱字があったり、ひらがなが多かったりしないこと。これはその学校の採点基準がどうなっているかにもよりますが、例えば何回も使う漢字を間違えると、その都度減点するという基準ならかなりの減点となりますし、いくら内容が良くてもひらがながばかりでは高評価とはならないでしょう。小論文は字数が多いですから、しっかりと見直してケアレスミスのないようにしましょう。漢字の苦手な人は教科書に出てくるレベルの漢字は書けるようにしておきましょう。
 以上の二点は、一般的な読解問題の前提と同じです。小論文に限らず、上記の二点ができなれば、試験で高得点をとることは望めません。
 第三は、正しい原稿用紙の書き方ができること。これも詳細は記せませんが、たとえば一般的な記述問題の場合は、「五○字以内で記せ」とあれば、マス目を空けずに一マス目から詰めて書き、句読点が行頭に来てもそのまま書きます。一方、小論文のような長い文章では、段落のはじめは一マス空けて二マス目からかき始め、行頭に句読点がくるときは、前の行の最終マスに文字と一緒に句読点を書くか、最終マスの下に句読点を書くことになります。新聞などは縦書きでも算用数字を用いていますが、縦書きの小論文では漢数字を用いるのが基本です。一方、横書きの場合は算用数字を用いるのが基本で、算用数字は一マスに二文字書きます。志望校の小論文が縦書きなのか横書きなのかも調べておきましょう。
 もう一点、原稿用紙の書き方についてのアドバイスですが、たとえば、誤字を見つけたり、文字の抜けを見つけたりした場合に、三○字や五○字程度の記述問題と違って、二○○字以上も書かなければならない小論文では、これまで書いた文字をすべて消して書き直したのでは時間内に書き切れない恐れがあります。そういうときのために、原稿用紙の校正の仕方も知っておいてください。正しい校正の仕方がしてあるかぎり、一カ所、二カ所の校正で大きな減点はないはずです。それよりは一から書き直そうとして時間内に書き切れないほうがハイリスクです。
 有難いことにいまの時代は、インターネットで検索をかければ、原稿用紙の使い方も校正の仕方も解説してくれているページがいくつもありますから、参考書など買ったりしなくても、原稿用紙の書き方を学ぶならインターネットでも充分です。
 最後に、小論文がどんなものかが分かり、書き方が分かっても、実際に書いてみないと対策とはいえません。さらにいえば、書いたものを読んでアドバイスをもらって書き直すなどすれば、準備としては万全です。
 入試で小論文に挑む受験生たちの健闘を祈ります。
 

2025-11-29 15:00:16

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小論文について(3)

 小論文についての第三回目です。前回、意見文が「意見とその理由を述べる」ことを求められるのに対して、小論文はさらに「その理由の根拠を論ずる=筋道立てて説明する」ことを求められているということを述べました。今回はその対策について述べます。
 最初にすべきことは、自分の志望校の過去問題を調べて、どんな形式で出題されているのか、どんなテーマがとりあげられているのか調べることです。小論文で取り上げられるテーマは幅広く、学校によっては多岐にわたることもありますが、それでも数年分の出題内容から学校ごとの傾向が見えてきます。たとえば、同じ医学部でもA大学の医学部は医療関連のテーマの出題が多いのに対し、B大学は医療関連に限定されず経済などのテーマも出題されているとしたら、A大学を志望する生徒は、医療関連の話題について常にアンテナを立てておいて、新聞を読んだり、テレビのニュースを見たり、医療問題に関する本を読んだりといった準備が必要ですし、B大学を志望する生徒は、特定の分野に限定せず、広く社会の出来事にアンテナを立てて、自分が興味のない分野の出来事であっても話題になっている出来事があれば、調べてみるといった準備が必要となります。
 一般的な国語の試験は読解が中心ですから、仮にテーマに対する予備知識が乏しくても、出題された文章をきちんと読み取れれば高得点を得られるケースもありますが、小論文はそのテーマに対する予備知識や体験がなければ高得点を得ることは困難です。仮に出題形式が課題文を読んで、それに対する意見を述べるものだとしても、テーマに対する知識・体験がなければ、意見の根拠にその人の独自性が出ず、課題文の内容をなぞるだけか、ごくごくありふれた一般論に終始してしまうことになるでしょう。読解問題というのは、模範解答というものが想定されていて、それと同内容の解答を書いた人が高得点になります。つまり、高得点をとる人はみなよく似た解答を書いているということになります。一方、小論文には模範解答はありません。誰かと似たような解答ならむしろ評価されにくいと考えたほうがよいでしょう。もちろん何か突飛なことを書いたほうがよいと言っているのではありません。読解問題の解答からは、解答者の思想の根底にあるものは分かりませんが、小論文からは、解答者の意見の根底にあるものが見えます。その根底がしっかりしていなければ、いくら立派な意見を書いたところで説得力をもたないということが言いたいのです。
 では、どうするか? これはもう日頃からさまざまな話題に触れ、さまざまな人の考えに触れ、文章を読み、自分の頭で考えるということを繰り返すしかありません。国語の時間に学んだ文章、模擬試験や定期試験で読んだ文章の内容などを〈他人ごと〉とせず、自分にも関係あることだと考えて、それに対する意見や考えを日頃から持つように心がけることです。そしてそれをノートに書き留めておくのです。長い文章でなくてもかまいません。誰の、どんな主張に対して、自分はこう考えるといったことを100~200字前後で書けば充分です。
 こうした下地をつくっておけば、いざ小論文の試験に臨むことになっても、何回か書く練習をすれば充分対応出来ます。大切なのは、日頃の心がけ。もっともこれは小論文に限らず、国語全般にいえることです。
 

2025-11-22 12:27:27

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