国語塾いはら教室

国語で伸びる、ことばで育つ

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もう一人のR君

 前回のブログは、当教室に9年間通ってくれたR君の話でしたが、今回はもう一人のR君の話をしたいと思います。彼も今年、大学に進学しました。
 ところで、彼はこの教室の開塾1年目に小学4年生で入ってきた生徒。本来なら前回ご紹介したR君とは受験年度は重なりません。彼は当教室に3年間ほど通塾して、県内の私立中学校の1年生のときに卒塾していたので、私はてっきりもうどこかの大学に通っているのだと思っていました。その彼のお母様から昨年の12月突然電話があって、二人で塾に訪ねてこられました。
 話をうかがうと、中学校に入ってからすっかり学習意欲を失い、入学した中高一貫校を高1のときに転学し、大阪の私立高校に通っていたとのこと。高校卒業後も大学進学の意志はなく働いていたが、やはり大学で学びたいと思うようになり、昨年の春から予備校に通っているということです。それで同志社大学の文学部を目指して頑張っているのだが、国語の記述問題に不安があるので、指導してもらえないかとの相談でした。
 せっかく頑張って合格した学校を辞めてしまった彼の気持ちを私も少しだけ理解できるつもりです。プロフィールを見ていただければ分かりますが、私も私立の中高一貫校に入学しました。そして彼と同じ高校1年生のとき(校内では中学4年生といいますが)一度は学校を辞めようと思いました。私はよく保護者の皆様に「親が『転ばぬ先の杖』になることはできません。どんなに順調に行っても、子どもというのは必ず転ぶものです。だから、親御さんは『転ばぬ先の杖』ではなく『転んだ後の杖』になってあげてください」と申し上げます。いわゆる進学校と呼ばれる学校に入ったから、有名大学に入ったからといって、人生の航路が平坦になるわけではありません。子どもになるべく平坦な道を用意してあげたいという思いは分かりますが、失敗しないように先回りする心積もりよりも、失敗したときに立ち上がる支えとなる心積もりをしておいていただきたいとお伝えしています。私は彼と違い学校を変わることはありませんでしたが、学校を辞めたいと言ったときには父や母は「おまえのしたいようにすればいい」と言いながら、内心どうしようかと悩んだそうです。彼のお父様、お母様も彼が転学することになったときにはずいぶんと心を砕かれたのではないかと推察します。
 しかし、何の疑問も感じずに中学・高校・大学と進むよりも、迷い、悩み、遠回りをしながら大学に進んだほうがむしろ大学で学べる喜びも大きいかも知れません。事実、彼は大学でこういう分野の学問がしたいという明確な目的をもっていました。ただ単にブランドを身にまとうように有名大学を目指すのではなく、この大学でこの学問がしたいと考えて進学するのは立派なことだと私は思います。(もっとも、進学せずに就職するのも立派なことだし、したいことが分からないので、とりあえず大学に行くというのでも私は構わないと思います。どの道筋を通っても、自分がこう生きたいという生き方に近づいていけばいいのではないでしょうか。)
 さて、彼は同志社大学の文学部と関西学院大学の文学部に合格して、同志社大学に進学することになりました。転学した大阪の高校でお世話になった先生に合格の報告をしたら、「うれしくもあり、ちょっと残念。大学なんか行かないほうが、もっと別の人生が開けたかも知れないという思いもある」というようなメールがきたそうです。この話を聴いて、いい出会いをしているなと感じました。周りに同じような価値観をもった人ばかりでなく、違う価値観をもった人がいてくれるのは彼にとって幸いだと思います。
 ところで、彼によると高校時代まったく受験勉強らしきことはせず、予備校に入ってからの10カ月ほど一所懸命に勉強して何とか志望校の合格圏内まで届いたそうです。彼がわずか1年足らずの受験勉強で合格できたのは、しっかりとした国語力の土台があったからだと私は考えていますが、国語塾の私がこう申し上げれば、我田引水ということになるでしょうか。
 ともあれ、R君、おめでとう。
 

2017-04-09 11:56:42

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国語塾9年生R君卒業

 この春、小学4年生から当教室に9年間通ってくれたR君が大学に合格し卒塾しました。この教室を始めたとき、小学校から高校まで一貫したカリキュラムで国語を教えられたら、より幅広い国語力が培えるのではないかと考えましたが、実際の問題として9年も同じ塾に通い続けるのは大変なことです。
 R君の場合、お母様が単に成績や受験対策ということではなく、当教室の考え方に理解を示してくださり、彼が開智中学に合格したあとも受講し、また、彼の学校での国語の成績が期待したほどには伸びなかったにもかかわらず(定期試験の国語の点数はいつも60点前後でした・・・もっとも点数以上の力はあると私は見ていましたが)、高校卒業までお子さんをまかせてくださいました。
 彼のお兄さんは東大生なのですが、このお母様がすばらしかったと思うのは、R君とお兄さんを比べることはせず、R君にどこの大学に行ってほしいということもおっしゃらなかったことです。内心思うところはあったとお察ししますが、あまり余計なことはおっしゃらず、じっとR君を見守っておられたようにお見受けしました。
 R君もどちらかというと口数が少なく、飄々という表現がいいか、茫洋という表現がいいか、一見とらえどころのないお子さんではありましたが、大雑把に見えて細かい気配りのできるお子さんで、電話をかけてきたときには「今いいですか?」とこちらの都合を尋ねてから話をするし、ボーイスカウトの大会に出かけたときはいつも旅先から葉書をくれたし、お土産を買ってきてくれたときは事務所の中にそっと入れておいて「事務所の中にお土産を置いておきました」などとそっと耳打ちしてくれたりしました。国語力の定義が広過ぎるのかも知れませんが、こういうことも含めて国語の力だというのが私の考えです。
 さて、R君の志望は北海道大学の理学部で、英語や理数の点数が安定していたので、センター試験の国語で7割とってくれれば合格ラインに届くとみていました。その期待どおり彼は141点をとりました。今年の国語の平均点が107点弱だったことを考えれば、力を出し切ったと言えると思います。
 「もうこの塾に子どもを送ってくることもないと思うとさみしいような気もします」
 合格の報告をしにR君を連れて来てくださったお母様がそうおっしゃいました。考えてみれば、R君のお母様は9年間塾への送り迎えをしてくださったのです。そのご苦労を思うと感謝してもしきれません。お母様、本当にお疲れ様でした。そして、R君、合格おめでとう。
 
 

2017-04-02 09:46:10

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うれしい訪問(2017年3月31日)

 昨年開塾10周年をむかえた当教室では、これまで200名近い生徒が卒塾していきました。けれども学校と違って全ての生徒が卒業や進学といった節目で卒塾していったわけではなく、途中で卒塾していった生徒がたくさんいます。教室に生徒をむかえいれるにあたっての私の方針は「去る者は追わず、来たる者は拒まず」ではありますが、「その後どうしているのだろう?」と気になっている生徒が何人もいることも事実です。
 そうした生徒の一人のA君が、先日不意にお母様と一緒に教室を訪ねてくれました。もっとも私は彼が名乗るまでA君であることに気づきませんでした。今は大学生になっているA君が当教室を辞めたのは小学5年生のときで、顔立ちがすっかり大人になっていたからです。
 彼は小学校3年生のときに入塾しましたが、5年生になっても「くつつき言葉」と呼ばれる「は・を・へ」を「わ・お・え」と書く癖が抜けきらず、ご両親はそのことを大変気にしておられました。私は、「ぼくわ 学校え 行く。」のような文の間違いを正せと言えばきちんと正せるし、漢字や仮名遣いの間違いはあるけれど、とても豊かな感性をもったお子さんで、俳句などもとても良いものを作るので、もう少し様子を見ていただきたいと申し上げました。しかし、3年近くも国語の塾へ通わせていて成果が出ないのなら塾へ通わせるよりものびのびと遊ばせてやりたいとのお父様のお考えで塾を辞めることになりました。辞めるときに、これまでお父様に一度も口ごたえなどしたことのない彼が、「国語塾だけは続けさせてほしい」と言ったのだとお母様からうかがったときは、本当に胸が痛みました。目に見える学力だけに汲々として、未来への種蒔きをないがしろにしないように、たとえ今すぐに成果があがらなくても、この先の学びを考えたときの糧になるようにということを第一に考えて指導をしていますが、成果が目に見えないことは子ども自身にとっても、保護者の方にとってもつらいことですから、それを理由に教室を去っていくのは私の力不足としか言いようがありません。しかし、その後どうなったのだろうということはずっと気になっていました。
 「Eです。お手紙ありがとうございました」手紙というのは、昨年開塾10周年を機会に、塾で学んでくださったご家庭(生徒・保護者)に送った粗品と簡単なメッセージのことです。お母様によると、直接出向いてお礼を伝えたいと思ったが、東京にいるのでなかなか帰ってくる機会がなく今日になってしまったとのこと。いまは日本大学の歯学部で学んでいるということでした。
 「もう、くっつきの『を』間違えない?」「さすがに今は間違えません」これを聞いて私は心から胸を撫で下ろしました。あるいは彼は、当教室を辞めたあと他塾に通って適切な指導を受け、仮名遣いがなおったのかも知れません。しかし、あのとき目に見える成果をあげようと躍起にならなくて私はよかったと思っています。そうしていたとしたら、それは子どものためを思ってというよりも、保護者の方の意向に沿うように、教室を辞めないようにするための指導になってしまっただろうと思うからです。もちろん当教室に節目まで在籍してくれて、成績向上なり、合格なりしてくれたらこんなにありがたいことはありませんが、大切なのは子ども自身が未来への道筋をつかむことです。A君は、歯学部に入学して未来への道筋をつかんだのですから、それを聞けただけで充分幸せです。
 もし彼が和歌山に帰ってきて歯科医をすることになったら、今度は私が彼に歯を診てもらいたいと思います。彼の「わ」を「は」になおせなかった私ではありますが・・・。
 

2017-03-31 11:03:13

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分からないけどやってみる

 先日の参議院選挙の後NHKのラジオで、ある高校を取材して新たに選挙権を得た高校3年生二人に感想を求めたところ、投票に行った女子高生は「今まで選挙というと自分とは関係のないものと思ってきたけれど、投票に行って関心が高まった。」と話し、投票に行かなかった女子高生は「政治のことは難しくて分からない。もっと分かりやすく教えてくれたら、投票に行っていたと思う。」と話しました。どちらももっともな意見だと思いますが、私は後者の女子高生の「分かりやすく教えてくれたら」が気にかかります。
 近頃は「分かりやすい」とか「分かる」ということをやたらと目指しているように感じます。もちろん難しいことを分かりやすく教えられたらすばらしいと思うし、分からないより分かるほうがストレスが少なくて済むとは思います。しかし、世の中がみんな「分かりやすさ」を志向し始めて「3分間で分かる」とか「サルでも分かる」とか、宣伝文句に踊らされてお手軽な解説書ばかりに飛びつくようになりはしないか少々心配です。(いえ、かく言う私もその手の本を何冊も持っていますが・・・。)
 大きな心配は二つです。一つ目は、「分かりやすい」解説を入り口にして、さらに深いところ、難しい問題を考えるようになるのならいいのですが、入り口のところだけで何もかも「分かったつもり」になってしまって、それ以上考えが深まらないのではないかという心配。もう一つは「分かりやすいこと」が良いこと、あるいは「分かりやすくて」当たり前という人が大半になってしまって、「分かりにくいこと」を敬遠したり、「分かりにくい」のは悪いことだと思うようになるのではないかという心配です。
 先の女子高生のことに話を戻せば「分かりやすく教えてくれたら投票するけれど、教えてくれないんだったら投票しない。」という考えで良いのかということです。それは世の中を善意に解釈し過ぎているように思います。例えば、ものすごく頭のいい人が普通の人には理解できないような世の中のしくみを作って、「こんな難しいこと知らなくても大丈夫ですよ。これは専門家に任せて、あなたたちは自分の分かる範囲のことをやっといてくれたら、後は私たちがやっておきますから。」なんてことを言って、自分たちの都合のよいようにどんどん世の中のしくみを変えていくという心配は本当にないのかということです。分からないこと、難しいことでも、それが自分に必要なことだったら、自分から学ぼうとする、あるいは分からないままにとりあえずやってみるということも大切だと私は思います。
 私の教室は入塾試験のようなことはしませんので、いわゆる勉強のよくできる子どももできない子どももいます。そして、できる子にもできない子にも易しいことも難しいことも両方やってもらいます。例えば、書写のときは小学校2年生の子どもにもプリントの文章をそのまま写すように言います。難しい漢字はホワイトボードに大きく書いたり、必要に応じて筆順を記したりしますが、基本は何も教えません。とにかく見たまま書いてみるように伝えます。時間内に数行しか写せない子もいます。私は筆をとめずに一所懸命書いたのなら、それで構わないと言います。こうしているうちに大部分の子たちは習っていない漢字だろうが、少々長い文章だろうが写すようになります。こう聞くと「書写なんて書いてあるまま写せばいいんだから、そんなに難しいことじゃない。」と思う人がいるかも知れませんが、低学年の子どもや国語の苦手な子どもにとっては、書いてあることをそのまま写すだけでもけっこうな大変な作業なのです。
 一部の子どもたちは「習っていないこと」をやらされること、ましてテストされることに強い抵抗感を示します。しかし、私は「まず思ったとおりにやってごらん。」とか「習ってないから、これから勉強するんだよ。」と言って背中を押します。多くの子どもたちはやはり自分のできる学習をやって、○がたくさんついたり、良い点数がとれることを喜びますが、私はできないことを承知でむずかしい学習もぶつけます。できないこと、難しいことに慣れてほしいと思うのです。
 考えてみれば人生分からないことだらけです。子育てだって、そうではないでしょうか? でも、分からないからといって放棄できないことが世の中にはたくさんあります。分からないなりにやってみて、試行錯誤しながら、よりよい方法を探っていくしかないことがあると私は考えています。子どもたちにはそういう経験をたくさん積んでもらいたいのです。いずれやってくる「分からないこと」に対峙できる力をつけてもらうために。
 
 

2016-07-30 08:24:19

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塾生たち(その四)

 今回は、現在在籍している小学2年生たちのことを書こうと思います。この子たちは小1の春から入会してきた子どもと秋から入会してきた子ども、冬から入会してきた子どもと合わせて4名いますが、どの子もなかなか愉快な子たちです。これは小1のときのことですが、時間になって教室に入ると子どもたちの姿が見えません。みんなで机の下に隠れていたのです。
 トップページの下部のストリートビューで教室内がご覧になれますので、ご覧になっていただくと分かるのですが、当教室の机は縦60センチメートル・横120センチメートルの二人掛けの机で、4枚の合板を組み合わせてできていますので、中に楽々と子どもたちが隠れることができます。それで教室に早く来た子どもの中にはよく机の中に隠れて、他の子どもたちが来たときに驚かそうとする子がいるのですが、まあたいていは隠れていることが分かるのでそれで驚かされる子どもはほとんどいません。それでも飽きもせず子どもたちはよくこのかくれんぼをします。私ははじめこんなバレバレのかくれんぼのどこがおもしろいのだろうと思っていましたが、そのうちにふと「これは隠れることを目的としたかくれんぼではなく、見つけてもらうことを目的としたかくれんぼなのだ。」と気づきました。
 そのときも小1の子どもたちは、この『見つけてほしいかくれんぼ』をしていたわけです。しかし、簡単に見つけてしまって、子どもたちの術中にはまってはおもしろくないので、私は子どもたちを見つける代わりに私も机の下に隠れることにしました。しばらくすると、机の下で子どもたちがひそひそ話す声がします。それでも私は机から出ずにじっと息をひそめてかくれていました。すると、不思議に思ったのでしょう。机の下から子どもたちがはい出す気配がしました。それでも私はまだ机の下から出ずに隠れて続けています。そのうちにとうとう一人が私が隠れている机のところにやって来て「み〜つけた!」。その日は授業の時間をかくれんぼで15分あまりにつかってしまいました。(保護者の皆さまごめんなさい。)
 さて、その子たちですが、2年生になり4月に実施した「ことばの調査」ではなかなか秀逸な答えを書いてくれました。当教室では毎年4月に語彙力調査をします。国語辞典から無作為に(といっても偏りがないよう多少調整はしますが)1000分の1の語句を選び出し、その語の意味を書くようにします。もっとも説明がむずかしい語句もあるので、その場合その語句をつかって例文を作ってもらい、適切な例文が作れていたら、一応その語彙については理解しているという判断です。小学生の場合、31000語所収の旺文社の小学国語辞典から31語を選んで、意味や例文を書いてもらいます。この10年間の調査では、小学校低学年では10語弱が平均で、10語以上書ける子どもは当教室では語彙の豊富な子どもです。中学年では15語前後が平均で20語以上書ける子は語彙が豊富な子ども、高学年では20語前後が平均で、25語以上書ける子どもは語彙が豊富な子どもだという判断をしており、例外がありますが、おおむね語彙数と国語力は相関関係にあります。
 ところで、2年生の子どもたちですが、語彙数はみな10語弱で、平均値ぐらいですが、説明の内容がとてもよいと私は思いました。たとえば、「平和」の説明。Y君・・・「なかよくいっている国」。Sさん・・・「わるいことが一つもおこらない」。いいなあ・・・と思います。中学年ぐらいになれば、「みんな平和をのぞんでいる。」とか「平和な国にしたい。」などの文を書くようになりますが、私はなんだかこの説明のほうが好きです。「情けない」の説明。Hさん・・・「だめだめ」。もちろん正確ではありませんが、彼女のもっている語彙で「情けない」をうまく表現していると私は感じました。大人顔負けの説明をするよりも、いま持っている知識と経験とことばを総合して書かれたこんな説明のほうが私は現段階では望ましいと考えています。「きびしい」の説明。Hさん・・・「むずかしい」。これは大人が困難な場面で「きびしいなあ・・・」などと言うのを聞いたのだと思います。Sさん・・・「こわいもの」。これは「きびしい先生=こわい先生」から出た発想だと思います。「満足」の説明。Sさん・・・「やりたいことをいっぱいしてもうじゅうぶんのこと」。Y君・・・「じゅうぶんだしありがとう」。とてもすばらしいと思います。
 もちろん国語辞典を調べる習慣もつけていってほしいし、国語にとって正確な語の意味を理解することは大切ですが、まだ小さい学年のうちはお父様やお母様、おじいさま、おばあさまが日常の体験の中で語の意味をかみくだいて話してあげてほしいと思います。それが多少不正確であっても、体験とともにことばが心に刻まれることが大切だと私は考えています。知識がつき、自分で国語辞典を調べられるようになれば、「あのときのお母さんの説明はちょっと違っていたな」と自分で気づくようになります。しかし、そういった学びとは別に、両親や祖父母から一つのことばが子どもに口うつしで伝えられる、そのことに意味があると考えます。
 国語力というのは、けっして学校や塾だけで培われるものではないと私は常々保護者の方々に申し上げていますが、この子たちのすてきな説明を見て、改めてそう感じました。

2016-06-11 20:45:04

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眼球の動かせない子

 いはら教室では「速読トレーニング」と称して、毎回授業の始めにビジョントレーニングをしています。「速読」と称してはいますが、文字を正確にとらえることと、目をスムーズに動かしてストレスなく文章を読むことが目的で、当教室ではいわゆる「超速読」のような1分間で驚異的な文字数が読めるといったことは目指していません。私自身もけっして読む速度が速いほうではないので、驚異的なスピードで一日に何冊も本が読めたらいいなとは思いますが、そういう読み方が果たしていいのか、またそういう訓練が子どもたちにどういった影響を与えるのかがまだ充分検証されていないように思うので、仮にそれが有効だとしてもそういう「超速読」のようなことは大人になってからのほうが無難なのではないかと私は考えています。
 では、当教室のビジョントレーニングはどんなことをしているのかというと、これは特別なものではなく、眼球を左右・上下・前後に動かす練習やランダムに並んだ数字を順番にチェックしたり、二つの文字列を比べて違いを見つけてチェックするといったごくごく基本的なものです。正直この訓練でどれくらいの効果が出ているのかははっきりしませんが、週一回眼球を動かしたり、文字や数字をチェックする訓練なら特別な効果はなくとも子どもたちの脳や目に悪影響を与えることもないだろうと考えて、学習の前の準備運動のようなつもりで実施しています。(ちなみに、子どもたちにとっては楽しい訓練のようです。)
 ところで、この眼球運動ですが、誰でも当り前のようにできるかというと違います。中には眼球を動かせと言っても、意識的に眼球を動かすことのできない子どもがいるのです。特に小学校低学年ぐらいの子どもにはまだうまく自分の意志で眼球を動かせない子どもが比較的多くいます。私は内藤貴雄先生というオプトメトリスト(日本ではまだ公的に認められていない職業のようですが、視覚の機能を高める訓練をする専門家)の研修会に参加したことがあるのですが、内藤先生によると、からだに不自由なく健康に生まれてきた子どもでも、発育の中で自分のからだの認識力高め、からだの各パーツ、すなわち腕や足、膝などの配置や大きさ・それらの相互関係(からだの構成)・働き(どうやって曲げたり動かしたりするのか)についての適切な「知恵」を発達させていかないと、人間というものは自分のからだをうまく使うことができないのだそうです。以前、転んでも手をつくことができないで顔を地面にぶつける子が増えてきたというのをテレビか何かで観た記憶があります。そんなことが本当にあるのだろうかと思っていましたが、少なくとも眼球を動かすということに関してはうまくできない子どもが少なからずいることは、私が教室で何人も目にしていますから、ありうることだと思います。
 文章を読んで理解するには、適切なことばの切れ目で文字列を区切って意味の最小単位を理解し(いわゆる文節単位でまず意味を理解し)、つぎに文節どうしのつながりを把握して文の意味を理解し、さらに文と文のつながりを把握して段落を理解し、段落どうしのつながりを把握して文章全体を理解するという何段階かの過程が必要ですから、ただ単に文字を正確にとらえられただけでは文章を読んで理解できるようにはなりませんが、少なくとも文字を目で正確にとらえられなければ文節単位で意味を理解することもできないし、文字の一画一画をきちんと把握できなければ漢字を覚えることも難しいだろうと思います。だから、眼球がスムーズに動かせるように訓練することや、眼球の上手な使い方(視力と視覚は別のものなのだそうです)を身につけることは学習には必須です。
 私たちはつい「ちゃんと聴きなさい」とか「しっかり読みなさい」とか具体的なやり方を何一つ示さないで、聴けない、読めない要因を子どもの意識や意欲の問題にしてしまいがちなのですが、なかなかそれができないお子さんの場合、そもそも聴く力があり聴覚のつかい方が身についているのか(当教室に通ってくれていた生徒で、学校の聴覚検診では発見されないまま、小学校5年生になって片方の耳が聞こえていなかったことが分かった子どもがいました。)そもそも視る力があり視覚のつかい方が身についているのかを確認してみる必要もあるかと思います。落ち着きがなかったり、集中力がなかったり、不器用だったり、人とうまく協調できなかったりといった子どもの中には視覚がうまく使えていないことが原因の子どももいるそうです。おそらく聴覚にも同じことが言えるのではないかと思います。
 内藤貴雄先生のホームページには、そうした子どもたちは「困った子ども」なのではなく「困っている子ども」なのだと書かれていますが、視覚に限らず大人から見て困った子どもが、、実は本当は困っている子どもだということは少なからずあることだろうと思います。私たちは子どもたちの「困っている」を見逃してはいないだろうか? この文章を書きながら、改めて私も自問自答しています。 
 

2016-06-06 09:16:48

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塾生たち(その三)

 今回はいま中学2年生になっている塾生たちのことを書こうと思います。この世代は多くの生徒が教室に通ってくれて、いまも当教室で学んでくれている生徒ともう卒塾してしまった生徒がいますが、全員のことは書ききれないので、今回は三人のことをお話しようと思います。

 一人目はT君。彼は小学2年生の春に当教室にやって来ました。来たばかりの頃、ある問題を解かせたのですが、漢字の間違いがあったり、助詞の使い方の間違いがあったりしたので×をすると、「これくらいええやんか!」と言って泣きだし、プリントをぐしゃぐしゃにしてごみ箱に捨てました。当教室は、小学生の場合は、教室に通ってきて3年から4年で成果が目に見えてくる子が多いのですが、一般に男の子はスロースターターが多く、低学年からあずかっていてもすぐに目に見える成果は表れなくて、小学校5年生ぐらいからぐんと伸び始める子が多いように思います。ただ、彼は漢字に関してはずっと苦手で、こちらも力をつけてあげられませんでした。小学5年生の3月まで通ってくれたのですが、よく泣き、よく笑う、愉快なお子さんでした。
 彼のことばでわすれられないものがあります。それは彼が3年生のときだったと思いますが、なにかのことで授業中に泣くことがあり、クラスにいた女の子から「少しぐらいのことで泣かないようにしないと・・・」と言われたのです。すると彼は、
「だって、泣かんとこうと思ても勝手に涙があふれてくるんやもん・・・・・・。」
 もっともなことだと私は思いました。感情が豊かであふれてくるのだろうと思います。そのあふれてくるものを、ことばに、文字にすることができたとき泣かずに済むのだと思います。私は彼にその力を充分につけてあげられたろうか? 充分ではなかったように思います。中学2年生になった彼がいまも泣き虫なのかどうかはわかりませんけれど・・・。

 二人目はNさんです。彼女も小学2年生の春から教室にやってきてくれました。入ってきたときから利発な子で、たとえば当教室では小学低学年から小学生新聞の記事などを書写させることもあるのですが、習っていない漢字があっても記事どおりに写させるので低学年だとうまく写せない子も多いのに、彼女は楽々と記事を写すだけでなく、漢字にふりがなをつけるときに、それまで書いていた先のまるくなった鉛筆から先のとがった鉛筆に持ちかえるという機転を利かすようなお子さんでした。
 彼女は小学校4年生ぐらいから中学受験を目指して進学塾にも通い始めましたが、進学塾に通いながらも小学校卒業までずっと当教室にも通い続けてくれました。ただ、利発なだけに多少功利的な面もあり、よく授業中に「先生、この勉強は何の役に立つん?」と訊いてくることも多くありました。そのように考えながら学ぶことはよいことですが、反面「役に立つ」「役に立たない」を行動原理にしてしまうと、自分の世界をせまくしてしまう心配もあると私は思いました。彼女は国語全般よくできるお子さんでしたが、俳句や作文など書かせると面白みがありません。理屈っぽくなってしまうのです。そこで、彼女には「疑問をもつことは大切だけれど、なんでもかんでも理屈づけしようとせず、役に立つか立たないかはいったん置いておいて、とにかくやってみること」や「知識偏重にならず、自分の五感で感じたことを大切にすること」を折に触れて話しました。
 彼女は智辯学園和歌山中学校と向陽中学校の両方に合格して、いまは智辯中学校に通っていますが、進学一辺倒ではなくもっと広い意味での国語も学習もさせたいと彼女のお母様がおっしゃってくださったのは私にとっては本当にうれしいことでした。もっとも私としては中学生になってからの彼女も指導してみたいという気持ちがあったので、小学校卒業とともに卒塾してしまったのは少々残念でもありましたが・・・。

 三人目はK君です。彼は小学2年生の秋に入ってきました。お父様とお母様に連れられて体験入学の申し込みに来たあと、今月から当教室で勉強させられることを知った彼は「嫌や!」と言って、何度も足を踏みならしました。そのことば通り、最初のうちは書写をさせても途中から鉛筆が止まり、しばらく休んでからまた書くといった調子。彼の筆箱にはピアノの鍵盤がついており、押すと電子音が鳴るのですが、授業が面白くないときはそれを鳴らして遊びます。利発さは感じますが、こつこつと地道にするようなことは嫌い。最初は1年間続いてくれるだろうかと感じるほどでした。
 その彼が見違えるようになったは小学5年生からです。授業中がさがさしたり、無駄話をすることがなくなりました。嫌がっていた書写なども集中力が途切れなくなりました。自分でも国語が分かるという実感が得られるようになってきたのだと思います。こうなってくると男の子は馬力が出てきます。
 それでも彼が小学6年生の夏になって私立の中学を受験したいと言ってきたとお母様からうかがった時は驚きました。私は国語に関しては土台作りをしっかりしておけば、進学塾で学ぶのは小学5・6年生からでも遅くないという考えです。特に文章読解のような問題はあまり早い段階から学習するよりは、むしろ受験の1年前ぐらいから練習したほうがよいのではないかと考えています。地力さえつけておけばそれで充分間に合うと思います。それでも6年生の夏からとなると中学の試験までは半年もありません。正直、ちょっと間に合わないのではないかと思いました。そこでお母様には保護者向けの通信にこう書きました。
「中学受験というのはメリットばかりではありません。不合格になって学習へのモチベーションを一気に下げてしまうお子さんもいます。また、合格して有頂天になって中学になってからの学習をさぼりそこで伸びが止まってしまうお子さんもいます。合格であっても不合格であっても、この体験を活かすことが大切だと思います。もし不合格だった場合は、『やっぱりちょっと準備期間が短かったね。次の高校入試はこの経験を活かして、もっと早くから準備をしようね。』といった具合に声をかけてあげてください。合格した場合は、『やはり頑張ったことはきちんと成果が出ることが分かったね。だから、次の目標を決めて、また勉強を続けていこうね。』といった具合に声をかけてあげてください。」
 おおよそこのようなことを書いたと思います。彼は秋から進学塾にも通い始め、本当に根を詰めて勉強しました。当教室では漢字をつかって例文を作るという学習をよくします。その頃の彼の例文には頻繁に『勉強』という語がつかわれています。それだけ始終勉強のことを考えていたのでしょう。
 彼は開智中学に合格しました。しっかりとした土台を築くこと、土台ができたら他のことには脇目もふらずに一心に受験に意識を集中すること、大切なのはこのことだと私は考えています。(こう書くと四六時中勉強することだと思う方もいるかも知れませんが、時間の問題だけではなく意識の問題です。スポーツの大会もピアノの発表会も、受験もと複数のことに同時並行で意識を集中させるのは困難なことだと思います。受験するなら、それに意識を集中させるべきだと私は思います。)
 もっともそれは受験だけではなくて、他のことにも言えることかも知れませんが・・・・・・。

 またまた長い文章になりました。今回もご高覧ありがとうございました。
 
 

2016-05-30 10:36:32

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国語は体力

 私は、学力をつけるのも体力をつけるのも、過程は同じだと考えています。例えば、筋力をアップさせたいと考えれば筋肉に一定の負荷をかけ続ける必要があります。二、三日集中的にハードなトレーニングをしたところで筋肉痛になりこそすれ筋力はつかないでしょう。学力もまったく同じだと思います。脳に一定の負荷をかけ続け、それを一定の期間継続するからこそ学力がつくわけです。ところが、筋トレならすんなり飲み込めるこのことが、学習となるとなかなか飲み込めない人がいるようです。なにかコツのようなものがあって、それを身につけさえすれば勉強ができるようになると考えている人がいるように思います。もちろんコツのようなものがまったくないわけではありません。国語でいえば、読み方や考え方、解答のしかたというものはあります。しかし、それはあくまでそれをできる基本的な国語力が備わっていてこそのものです。これまで私が指導してきた生徒を見る限り、国語ができないという生徒の大半は基本的な国語力が不足しています。いわば体力不足なのです。体力不足の人間にテクニックを教えても実際に使いこなすことはまずできません。だから、まずは体力づくりが肝心です。
 しかし、これにも勘違いがあって、国語がそこそこできる生徒(定期試験でいうと50~60点ぐらいとれている人は)体力不足の自覚がありません。だから、現状の体力のままで技術(解法)だけを身につけて高校入試や大学入試に挑もうとするのですが、これは私に言わせれば高校野球の選手がプロ野球の試合に出るようなものです。プロの選手と高校野球の選手で何が違うか? 技術のほうに目を向ける人もいるかも知れませんが、圧倒的に違うのは体力だと思います。プロで必要とされる高度な技術を支えるだけ体力があるからこそ、技術が駆使できるのです。試験のレベルがあがれば、それに必要とされる体力も当然レベルアップする必要があるわけですから、体力が不足しているまま試験を受けてもうまくいかないのは当り前のことです。それに気づかずに模擬試験などを受け続けて結果が出ず、いよいよ切羽詰まってから塾に通ってなんとかしようとする。正直それでは遅いのです。
 こう書くと、「じゃあ、受験の前になって国語の勉強をしても無駄じゃん」と思う人が出てきます。そうではなくて、「何かコツのようなものをつかみさえすればできるようになるという考えは捨ててくださいよ」と申し上げたいのです。もちろん体力をつけるにははじめに書いたように一定の期間は必要です。それに体力をつけたらそれで終わりではなく、体力をつけてから今度は技術を身につけなければなりませんが、これにだって一定の期間が必要です。だから、始動は早いほうがいいのです。(塾へ通わなくても自分で毎日漢字の問題集を解く等準備はできるはずです。)
 私は常々疑問に思うのですが、スポーツならすんなり納得できることが学習になると納得できないのはなぜでしょうか? 例えば、野球やサッカーで1年生でレギュラーになれる子もいれば、3年生で補欠の子もいます。ですが、「うちの子は3年生どころか、1年生の野球力もない・・・」と嘆く親御さんに出会ったことがありません。むしろ「3年間補欠だったけれど、部活を辞めないでよく頑張った」と評価する親御さんが多いのではないでしょうか。でも、学習では、なぜか「人並み」や「人並み以上」を求めている親御さんが多くなるように感じます。「うちの子は1年生ぐらいの実力しかないのに、学校を辞めないで3年間よく頑張った」なんて親御さんにはあまり会ったことがありません。それはスポーツは持って生まれた才能によるが、学習はそうではなく努力次第でなんとかなるものだと考えているからでしょうか? それともスポーツの出来不出来は人生を左右しないが、学習の出来不出来は人生を左右すると考えているからでしょうか? けれども、部活ならよく頑張ったで、学習なら「頑張って当り前」は不公平ではありませんか? とくに毎日の家事をされているお母様がたには「やって当り前」がどれほど大変なことかよくお分かりになるのではないでしょうか? と言いつつ、私もときどき塾生の愚痴などこぼし、小学校の教員をしていた父から、「毎週塾に来るだけでも大したもんではないか」とたしなめられることがありますが(笑)。世の中には「受験が人生を左右する」のように言う人がいますが、12や15や18で決まるほど、人生って薄っぺらいものなのでしょうか? それならば50年も60年も生きることはむなしいことだと思いますが・・・。
 閑話休題、受験を目指す皆さんは今から体力づくりをしていきましょう。小学生の皆さんは学校で習う漢字などは毎日しっかりとおさらいして読み書きできるようにしておきましょう。中高生の皆さんも、クラブ活動を引退してから頑張ろうなどと考えず、今日から毎日少しでいいので取り組み始めましょう。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というではありませんか。クラブ活動でも成果をあげ、しかも志望校にも合格しようなどと虫の良いことを考えてもいいけれど(笑)、それならば二兎を追うだけの時間と労力をかけましょう。物事には短期間に集中的に取り組んだほうがよいことと、長期間少しずつ取り組んだほうがよいことがあります。私は国語というものは、酒や味噌の醸造のようなものだと考えています。早くから仕込んでじっくりと寝かさないと本当の熟成は得られないものなのです。念のため、再度くり返しますが、それは塾に通えということではけっしてありません。毎日漢字の問題を10題ずつ解くだけでも、新聞のコラム欄の要約を書くことでも(いえ、コラム欄を読むだけでも)体力はアップするのです。その状態で、模擬試験などを受けて自分の現状の力をはかり、そのうえで学校の先生に指導をお願いするのか、自分で勉強するのか、塾や予備校などに通うのかを判断すべきです。ある程度の体力をつけていない状態では、自分の技術(問題を解く力)がどの程度備わっているのかを的確に判断することもできません。
 今日から国語の勉強をしてくれる生徒の皆さんが増えますように・・・。では、今回はこれまでといたします。
 

2016-05-23 16:23:00

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塾生たち(その二)

 この3月に国立和歌山工業高等専門学校(和高専)への入学が決まり、当教室を卒塾することになった塾生のお母様が先日教室を訪ねてくださいました。合格が決まったときに、学校に問い合わせれば入学試験の点数を開示してくれるということだったので、国語の点数を教えてほしいとお願いしておいたのでした。
 そのようにお願いしたのは理由があります。彼は小学3年生から当教室に通ってくれていた生徒で、順調に国語力を培っていってくれていると考えていたのですが、私の目から見ると中学生になってすこし失速した感がありました。失速というのは、彼の元々もっている素質からすればもっともっと読解力も表現力も、そして意欲も高いはずなのに、充分力を出し切れていないように感じていたのです。それでも元来地力のある子ですから、入学試験に関しては合格ラインには充分届くと考えており、国語に関して言えば、何の心配もしていませんでした。ところが、中学3年生になり和高専の過去問題を解いてもらうと、これがかんばしくありません。彼の持っている力からすれば、6割は楽にとれると見ていたのですが、いつも5割弱ぐらいです。和高専という学校の特質からすると、おそらく数学や理科が得意な受験生が多いでしょうから、国語塾に通っている彼は国語で差をつけられると考えていました。しかし、これでは国語で差をつけるどころか国語が足を引っぱりかねません。そんなわけで合格したのはよかったけれど、国語の力が充分発揮できたのかどうか知りたかったのでした。
 お母様からうかがったところによると、入試科目の中で国語の点数が一番良かったのだそうです。(100点満点中80点)それを聴いて私はほっとしました。でも、彼の本来持っている力からすると問題内容からしてこれくらいの点がとれても驚くには値しません。それにしても、受験というここ一番で自分の持っている力を発揮してくれたことは本当にうれしく思いました。亡くなられた臨床心理学者の河合隼雄先生が、「人間はここぞという時に80点でも90点でもだめで、100点をとらなければならないときがある。平均して85点の人生を送っていても、ここ一番で100点のとれない人は人生のチャンスをつかめない。だから、普段は60点ぐらいでいいんだ。」というような意味のことを著書に書いておられたことを思い出しました。ここでいう100点とは必ずしも100点満点のことではなくて、自分の持てる力を100%発揮するという意味だと思います。私はこの考えがとても好きです。私が中学生になってからの彼を不満に思っていたのもこの点で、点数というより彼の姿勢に「85点でいいや」といったものが見え始めたのが何より心配でした。そういう力の出し惜しみのようなことをくり返していると、いざという時に本当の力が出せなくなるということをさまざまな分野の方の書いたものやインタビュー記事などで読んだことがあります。私は彼に話したことがあります。
「国語に関しては君は合格に必要な点数はとれると思う。そのことに関しては何も心配していない。でも、大切なのは入試のためだけじゃない国語力をつけることだ。高専での学習は理数系の学習が多いかも知れないが、だからこそむしろ国語力が大切になってくる。特に君が進もうとしている環境都市工学科は理論だけじゃだめだと思う。例えば、いくらすばらしい都市設計をしても、そこに住む人の気持ちを考え、その人達が納得する街づくりをしないと実際の仕事はうまくいかない。実際、東日本大震災の後の町々の復興でそういう問題がたくさん出ているじゃないか。そういう住民の共感を得られるような街づくりをするときに、必ず国語力が必要になると私は思う。」
また、彼は1月に実施された体験入学入試という小論文だけの入試も受験たずさしたのですが、その指導をしているときには、こんなことも言いました。
「文章というのは小手先の技術だけで書くものではない。日頃からどんなふうに過ごしているかが大切なんだ。直前になってどうこうしようと思ったって、どうにかなるもんじゃない!」
 今思えば、入試に合格するだけでも大変なのに、その彼にずいぶんと高い要求をしました。しかし、逆に言うと、それは彼への期待の表れでもあります。ただ、私の話を彼がどう受け止めているかが心配でした。あまり表情を変えずに私の話を聴いてはいましたが、内心では「このおっさん、無茶なことを言う。そんな余裕がいまの自分にあると思ってんのか!」と感じたかも知れません。
 ところが、帰り際にお母様がこんなことを語ってくださいました。
「この教室の最後の授業が終わったあと、車に乗り込むと子どもの目が潤んでいました。彼は兄と違ってクールなところがあるのですが(お兄さんもこの教室に小4~中3まで通ってくれていました)、その彼が小学校の卒業式よりも中学校の卒業式よりも、井原先生との別れが一番うるっときたと言ったんです。私もそのことばを聴いて思わず泣けてきました。」
 私は心底ほっとしました。自分のことばは彼に届いていたのだと思いました。もっとも、私のことばを本当に活かしてくれるかどうかはこれからの彼次第です。いつか彼が「先生の言ったとおりだった。社会に出てからこそ国語力が大事だと分かった。」そう言ってくれたらどんなにうれしいだろうと、これはまた我田引水の願望ですが、そんなふうに私は思っています。
 
 

 

2016-05-15 07:46:12

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鉛筆の持ち方が気にかかる

 教室を始めてしばらくして驚いたのが、鉛筆を正しく持てていない生徒がとても多いことでした。これは当教室の生徒だけのことなのだろうかと思って、当時非常勤講師をさせていただいていた智辯和歌山中学校のあるクラスで確かめてみると、ざっと見て4分の1程度の生徒の鉛筆の持ち方がよくありません。中学生の場合、シャープペンシルを使うので鉛筆に比べて持ちにくい場合があることや指の力の弱い子どもは正しい持ち方だと筆圧が弱くなってしまうので力の入りやすい持ち方をしてしまうなどの要因もあるかも知れませんが、どうもそもそも鉛筆の正しい持ち方をきちんと指導されていないのではないか? そういう懸念を持ちました。
 小学校高学年ともなると我流の持ち方がすでに身についてしまっていて、注意してもなかなか正しい持ち方に直すことができません。当教室は開塾当初小学校4年生からお子さんをおあずかりしていたので、「ああ、これは低学年のうちから正しい持ち方を定着させないと駄目だなあ・・・」と残念に思ったものでした。
 で、実際に小学校1年生からのクラスができて、生徒の指導をしてみるとこれが思ったほど簡単ではない。1年生だから学校で正しい鉛筆の持ち方を教えられているはずなのに、正しく持てている生徒はほとんどいません。毎週毎週注意を促して正しい持ち方をさせないとなかなか定着しません。だから、相当数の生徒が正しい鉛筆の持ち方ができていないのは学校で指導していないからではなくて、それがきちんと定着するまで学校だけではなかなか指導しきれないからではないかというのが、いまのところの私の推測です。
 そこでこの文章をご覧になった小学生をお持ちの保護者の方々にお願いです。お子さんが鉛筆を持つようになったら、ぜひ正しい鉛筆の持ち方を毎日毎日粘り強く教えて定着させてください。箸の持ち方を教えるのや、歯磨きの習慣をつけるのと同じです。最低3ヵ月は毎日続けないと定着するのは難しいと思います。

 鉛筆の持ち方をうるさく言うと嫌がって勉強しなくなるというお母様もいらっしゃるかも知れません。よく分かります。私の教室でも鉛筆の持ち方を直そうとすると「書きにくい」と言って、すぐに我流の持ち方に戻ってしまいます。しかし、なぜそもそも《鉛筆の持ち方》なるものがあるのかを考えてみてください。それはそう持てば、楽に文字が書きやすいからです。筆順だってそうです。そういう順番で書くのが書きやすいから筆順なるものがあるのです。この「○○しやすい」は軽視できません。特に小学校低学年の子ども(時には小学校中高学年の子どもにとっても)にとっては机に座って文字を書くとういうことだけでも大変な労力なのです。大人の自分たちがそれほどの労力を感じずにできていることでも、習慣ができていない子どもにとってはものすごい労力です。それを理解しないで勉強させようとしてもなかなかうまくいきません。
 私がもっとも心配しているのは、「鉛筆の持ち方ぐらい・・・」と基礎基本を軽視することです。持ち方が悪くてもきれいな字が書けているからそれでいいという問題ではありません。私の見るところ、鉛筆の持ち方の悪い子どもは姿勢も悪い。また、手許が見えづらくて首を不自然に曲げて鉛筆の先をのぞきこむようにして書いている子どももいます。こういうことはすべて学力の向上を阻害します。姿勢の悪い子どもには計算間違いが多いという指摘をする数学の指導者もいます。学力というのは、特別なことをするよりもごくごく基本的なことによって担保されているものだと私は思います。
 学校には学校の役割、塾には塾の役割、家庭には家庭の役割があります。「家ではいそがしくて見てやれないから、塾にまかせているのに・・・・・・」とおっしゃる保護者の方もいらっしゃるとは思いますが、箸の持ち方や歯磨きの習慣を塾で週2、3回通うだけの塾で定着させることが難しいように、鉛筆の持ち方も学校や塾だけで定着させるのは無理だと思っておいていただいたほうがよいかと思います。ちなみに鉛筆の持ち方と箸の持ち方はとてもよく似ていて、ほぼ同じ筋肉を使います。これも私の経験上の見立てですが、鉛筆が正しく持てていない子どもは、箸も正しく持てていない子どもが多いです。まずは食事の際に箸を正しく持たせることから始めてみてはいかがでしょうか。

2016-05-08 07:25:21

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