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小論文について(4)

 小論文についての第四回目です。これで一応、小論文について記事を終了することにいたします。
 これまでは小論文とはどんなものかということと、そのためにどんな準備が必要かということでした。ならば、最終回はどう書くか、という話にしたいのは山々ですが、これは短いブログでは伝えきれません。基本的な考え方は同じですが、どんな出題形式か、字数はどれくらいかによっても書き方は違ってきます。
 そこで今回は、どう書くかの前提となる基本中の基本の確認といたします。
 第一は、文法的に正しい文が書けること。助詞や助動詞の使い方が不適切だったり、主語と述語がかみ合っていなかったり(いわゆる「ねじれ」があったり)、「なぜなら~からだ。」「まさか~ないだろう(まい)」などの呼応表現ができていなかったりといった文法的な誤りがあると、小論文としての評価はかなり割り引かれると考えておいたほうがよいでしょう。
 第二は、誤字・脱字があったり、ひらがなが多かったりしないこと。これはその学校の採点基準がどうなっているかにもよりますが、例えば何回も使う漢字を間違えると、その都度減点するという基準ならかなりの減点となりますし、いくら内容が良くてもひらがながばかりでは高評価とはならないでしょう。小論文は字数が多いですから、しっかりと見直してケアレスミスのないようにしましょう。漢字の苦手な人は教科書に出てくるレベルの漢字は書けるようにしておきましょう。
 以上の二点は、一般的な読解問題の前提と同じです。小論文に限らず、上記の二点ができなれば、試験で高得点をとることは望めません。
 第三は、正しい原稿用紙の書き方ができること。これも詳細は記せませんが、たとえば一般的な記述問題の場合は、「五○字以内で記せ」とあれば、マス目を空けずに一マス目から詰めて書き、句読点が行頭に来てもそのまま書きます。一方、小論文のような長い文章では、段落のはじめは一マス空けて二マス目からかき始め、行頭に句読点がくるときは、前の行の最終マスに文字と一緒に句読点を書くか、最終マスの下に句読点を書くことになります。新聞などは縦書きでも算用数字を用いていますが、縦書きの小論文では漢数字を用いるのが基本です。一方、横書きの場合は算用数字を用いるのが基本で、算用数字は一マスに二文字書きます。志望校の小論文が縦書きなのか横書きなのかも調べておきましょう。
 もう一点、原稿用紙の書き方についてのアドバイスですが、たとえば、誤字を見つけたり、文字の抜けを見つけたりした場合に、三○字や五○字程度の記述問題と違って、二○○字以上も書かなければならない小論文では、これまで書いた文字をすべて消して書き直したのでは時間内に書き切れない恐れがあります。そういうときのために、原稿用紙の校正の仕方も知っておいてください。正しい校正の仕方がしてあるかぎり、一カ所、二カ所の校正で大きな減点はないはずです。それよりは一から書き直そうとして時間内に書き切れないほうがハイリスクです。
 有難いことにいまの時代は、インターネットで検索をかければ、原稿用紙の使い方も校正の仕方も解説してくれているページがいくつもありますから、参考書など買ったりしなくても、原稿用紙の書き方を学ぶならインターネットでも充分です。
 最後に、小論文がどんなものかが分かり、書き方が分かっても、実際に書いてみないと対策とはいえません。さらにいえば、書いたものを読んでアドバイスをもらって書き直すなどすれば、準備としては万全です。
 入試で小論文に挑む受験生たちの健闘を祈ります。
 

2025-11-29 15:00:16

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小論文について(3)

 小論文についての第三回目です。前回、意見文が「意見とその理由を述べる」ことを求められるのに対して、小論文はさらに「その理由の根拠を論ずる=筋道立てて説明する」ことを求められているということを述べました。今回はその対策について述べます。
 最初にすべきことは、自分の志望校の過去問題を調べて、どんな形式で出題されているのか、どんなテーマがとりあげられているのか調べることです。小論文で取り上げられるテーマは幅広く、学校によっては多岐にわたることもありますが、それでも数年分の出題内容から学校ごとの傾向が見えてきます。たとえば、同じ医学部でもA大学の医学部は医療関連のテーマの出題が多いのに対し、B大学は医療関連に限定されず経済などのテーマも出題されているとしたら、A大学を志望する生徒は、医療関連の話題について常にアンテナを立てておいて、新聞を読んだり、テレビのニュースを見たり、医療問題に関する本を読んだりといった準備が必要ですし、B大学を志望する生徒は、特定の分野に限定せず、広く社会の出来事にアンテナを立てて、自分が興味のない分野の出来事であっても話題になっている出来事があれば、調べてみるといった準備が必要となります。
 一般的な国語の試験は読解が中心ですから、仮にテーマに対する予備知識が乏しくても、出題された文章をきちんと読み取れれば高得点を得られるケースもありますが、小論文はそのテーマに対する予備知識や体験がなければ高得点を得ることは困難です。仮に出題形式が課題文を読んで、それに対する意見を述べるものだとしても、テーマに対する知識・体験がなければ、意見の根拠にその人の独自性が出ず、課題文の内容をなぞるだけか、ごくごくありふれた一般論に終始してしまうことになるでしょう。読解問題というのは、模範解答というものが想定されていて、それと同内容の解答を書いた人が高得点になります。つまり、高得点をとる人はみなよく似た解答を書いているということになります。一方、小論文には模範解答はありません。誰かと似たような解答ならむしろ評価されにくいと考えたほうがよいでしょう。もちろん何か突飛なことを書いたほうがよいと言っているのではありません。読解問題の解答からは、解答者の思想の根底にあるものは分かりませんが、小論文からは、解答者の意見の根底にあるものが見えます。その根底がしっかりしていなければ、いくら立派な意見を書いたところで説得力をもたないということが言いたいのです。
 では、どうするか? これはもう日頃からさまざまな話題に触れ、さまざまな人の考えに触れ、文章を読み、自分の頭で考えるということを繰り返すしかありません。国語の時間に学んだ文章、模擬試験や定期試験で読んだ文章の内容などを〈他人ごと〉とせず、自分にも関係あることだと考えて、それに対する意見や考えを日頃から持つように心がけることです。そしてそれをノートに書き留めておくのです。長い文章でなくてもかまいません。誰の、どんな主張に対して、自分はこう考えるといったことを100~200字前後で書けば充分です。
 こうした下地をつくっておけば、いざ小論文の試験に臨むことになっても、何回か書く練習をすれば充分対応出来ます。大切なのは、日頃の心がけ。もっともこれは小論文に限らず、国語全般にいえることです。
 

2025-11-22 12:27:27

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小論文について(2)

 前回に続き、小論文についてです。前回、感想文・意見文・小論文の違いについておおまかに説明しました。今回は、具体例をあげながらその違いを見ていくことにします。
 テーマは「スマートフォン」としてみましょう。まず、スマートフォンというテーマを与えられて、次のような文章を書いたとしたら、それは感想文ということになります。
 
  スマートフォンは現代社会にはなくてはならない機器だ。これ一つあれば、電話も
 メールも利用でき、そのうえユーチューブなどの動画も見られる。こんな便利な物が
 ある時代に生まれた私は幸せだ。
 
 一見、スマートフォンは現代社会になくてはならない機器だ、という一文で意見を述べているようにも読み取れますが、その理由が便利だというだけではっきりしませんし、「幸せだ」というのは個人の感じ方ですから、これは意見文とはいえません。
 では、次は意見文です。
  
   最近、スマートフォンの使用時間を規制する条例案を決議した市がある。私はこの
 条例案に賛成だ。なぜなら、スマートフォンの使用によるさまざまな問題が起きてきて
 いるからだ。たとえば、スマートフォンの見過ぎによる視力低下や姿勢の悪化、睡眠障
 害などが指摘されている。こうした弊害はまだまだ社会に認知されているとは言い難い。
 それを広く社会に知らしめる意味でも条例案が提出されたことには意味がある。
 
 この文章では、スマートフォンの使用時間の規制条例案に賛成だという意見がはっきりと述べられ、その理由とさらにそれを具体化した説明が付け加えられています。意見文とは、このように自分の意見とその理由・根拠が明確に示されている文章を指します。
 最後に小論文の例をあげてみます。
 
  スマートフォンの使用時間の規制の条例案に賛成する。なぜなら、スマートフォンの
 長時間の使用は視力低下などの健康被害や学力低下などをもたらしているからだ。
 たとえば、文部科学省の調査では、小中学生の視力低下が過去最悪となっており、
 その原因としてタブレットやスマートフォンの利用増加をあげている。また、国の「経
 年変化分析調査」では、前回よりも成績が下がった原因の一つとして、スマートフォ
 ンの利用時間の増加によって家庭での学習時間が減ったことをあげている。こうし
 た事実をふまえると、スマートフォンの使用時間を削減する何らかの対策は必要で
 ある。もちろん、それにはさまざまな方法があろうが、条例による規制も有効な方策
 の一つであると考える。
 
 二つ目の意見文に対して、三つ目の小論文では文部科学省や国の調査結果を根拠として提示しています。意見文が「意見とその理由を述べる」ことを求められるのに対して、小論文はさらに「その理由の根拠を論ずる=筋道立てて説明する」ことを求められているわけです。
 では、そのためにはどうすればいいのでしょうか? それはまた次回に述べることにいたします。
 

2025-11-15 13:32:17

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小論文について(1)

 今回は小論文について書かせていただきます。当教室でもこれまで何十名かの小論文の指導をしてきました。それらの体験から皆さまの参考になると思われることを何回かに分けてお伝えいたします。
 まず一口に「小論文」といっても、その内容は多種多様です。大学によっては、科目名は「小論文」となっていても、実際の試験問題は、文章の要約であったり、字数の多い記述問題であったりすることもあります。論文形式の試験問題も、文章を読んでそれに対する意見を書く形式、図やグラフを読み取って意見を書く形式、文章と図・グラフの両方を読んで意見を書く形式、文章の要約と意見の両方を書く形式、テーマ(題名)だけが与えられて意見を書く形式などさまざまで、大学や専門学校によって出題形式が違いますし、同じ大学でも学部によって出題形式が違うこともあります。
 さて、上記の小論文の形式の説明で「意見を書く」という部分が共通していることにお気づきになられたでしょうか? そうです。小論文は意見文の一種です。では、「意見文」と「小論文」はどう違うのでしょうか? それに答える前に、まず「作文」「感想文」「意見文」の違いについてお話します。
 作文というのは、文章全般を指します。ですから、感想文も意見文も小論文も作文ですし、小説や随筆や広い意味では詩や短歌、俳句も作文だという人もいます。いまは少し変わってきているかも知れませんが、私たちの世代(60代)が小学校で書かされたのは、学校行事の感想とか、読書感想文とか、ほとんどが感想文でした。では、感想文と意見文は何が違うか?
 それは、感想文のテーマには問題がないこともあるし、問題があったとしても意見を書かなくてもいいが、意見文には必ず問題があり、その問題に対して肯定・否定(賛成・反対)や解決策などを書かなければならないということです。例えば、感想文では「スマートフォンの使用時間を制限すべきか」という問題に対して、「それはそれぞれの家庭で決めればいいと思う」と書いてもいいけれど、意見文では「制限すべき」「制限すべきでない」のどちらかで書かなければなりません。
 ここでさきほどの意見文と小論文の違いについて説明しましょう。自分の意見とその理由や根拠を述べる点では両者はほぼ同じです。ただ、その理由・根拠に多くの人が納得する客観性が求められるという点が(それは意見文でも本来そうあるべきですが)、意見文と小論文の違いです。そのためには、個人的な体験や考えだけでなく、自分の理由や根拠を支える事実やデータ、あるいはその問題に対して他者がどう論じているかなどの知識が必要です。自分の意見・その理由や根拠・それを支える事実やデータなどを一貫した筋道で書いたもの、それが小論文ということになります。
 もっともこれだけでは、抽象的すぎてまだ小論文がどんなものかイメージしにくいですね。次週はさらに具体的に、感想文・意見文・小論文の違いについて述べていくことにします。

2025-11-08 11:06:21

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漢字習得はご家庭で

 今回は漢字学習の重要性について再びお伝えいたします。国語の苦手な子どもの大部分は漢字の読み書きのできない子どもです。当然といえば当然ですが、これはなかなか軽視できない問題です。
 国語の塾をもう20年続けてきましたが、私の教室ではこれまでひらがなの読み書きができない生徒には出会ったことがありません。(カタカナが一部読み書きできない生徒はいました。)ですから、ひらがなに関してはおそらく大部分の子どもが読み書きできるのではないかと考えています。
 ということはルビ付きの文章であれば、少なくとも字面だけは読めるということになります。ところが、私たちが読む文章の多くにはルビがついていません。つまり、漢字が読めることが前提で書かれているということです。学校の教科書も例えば3年生の教科書であれば、2年生までに習った漢字は読めるということを前提としてルビをつけていない出版社が多いようです。つまり、漢字が読めないと多くの文章は読めないのです。
 ですから、子どもに国語力をつけさせたいと考えておられる親御さんは、まず小学校低学年のときからしっかりと漢字の読み書きを身につけさせるということを意識していただきたいです。漢字習得に関しては、少なくとも小学校低学年のうちは、学校任せ、塾任せにしないでご家庭で身につけさせるのがよいと私は考えています。文字の習得というのは個人差が大きいので、学校のような集団指導では習得の遅い子どもをカバーしきれないし、週4,5日通塾できるならともかく週1、2日の通塾では一度に学習する漢字の数が増えてしまうので、習得の苦手なお子さんの場合なかなか覚えきれません。
 大事なのは、小学校1、2年生ぐらいの段階で家庭でのフォローが必要かどうかを早く見極めることだと思います。1年生の段階で問題なくても、2年生の段階で出来が悪くなったら、すぐにフォローを開始すべきです。「1年生のときはできたから、そのうち覚えるだろう」などと油断していると、未習得の漢字に新しく習う漢字が追加されて、雪だるまのように読み書きできない漢字が増えていきます。こうなると、漢字を身につけるハードルがぐんと上がります。4,5年生ぐらいになって漢字テストで2割、3割ぐらいしかとれなくなって、そこから慌てて勉強しても今まで積み残してきた漢字と新しく習う漢字の両方を身につけるのは容易ではありません。
 そういう状態で中学生になり、ルビなしの国語辞典を使わなくてはならなくなると、ことばを調べても漢字が読めないために説明文が理解できません。そうなると、多くの文章に触れても語彙力が身につかない、語彙力がないから文章を読んでも理解できない、理解できないからますます文章を読まなくなるという悪循環に陥りがちです。そうならないためにも、少しでも漢字習得に遅れを感じたら、早めの対応をとることをお勧めします。
 家庭で身につけさせるといっても、そんなに大層なことではありません。リビングやキッチンで、毎日2字、学校で習った漢字のおさらいをするだけ十分です。この「毎日」というところがポイントで、回数を増やせば一回の学習時間を短く、学習する漢字の量も少なくできるので、子どもの負担が少ないのです。これはご家庭だからこそできることです。
 子どもと一緒にお風呂に入れる時期が限られているように、親子で勉強できる時期も限られています。お子さんと過ごす時間の中に毎日10分ほどでかまわないので、漢字学習の時間を設けることをお勧めいたします。
 

2025-11-01 13:44:40

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物の名前を学びましょう

 今日はまずアメリカに旅行に行って、屋台でホットドッグを買う場面を想像してみてください。先週も書いたように、いまはスマートフォンでも音声翻訳が出来るので、それを利用して食べたい物を伝え、買うことは可能です。しかし、メニュー表のようなものがあるなら、ホットドッグを一つ買うくらいなら片言の英語でも可能でしょう。いえ、片言どころか、単語の羅列だって、通じると思います。メニューのある商品を指さして、「ディス、ワン、プリーズ」とでもいえば、それで事足ります。
 しかしメニュー表や目の前に実物がない状態で買うとなると、「ホットドッグ」という名前を知らなければ、なかなか大変です。仮に「ソーセージをはさんでケチャップとマスタードをかけた細長いパン」と言ったとしてもそれでは通じないかもしれません。少なくとも、「ホットドッグ」ということばを使うよりもずっと難しそうです。  
 前置きが長くなりましたが、このメニューも実物もなくことばだけでホットドッグを買おうとするのが、国語の世界です。仮にこの場面を文章で描いたとしたら、次のようになるでしょう。
「アメリカのニューヨークの街を散歩していた私は、ちょっと小腹がすいてきた。ちょうど通りの向こうにホットドッグの屋台がある。そうだ、ホットドッグを食べよう。屋台の前まで来たものの、どうやって注文したらいいか分からない。仕方がないので、メニューを指さしてこう言ってみた。ディス、ワン、プリーズ・・・」
 この文章を日本語で読んだ子どもがいるとしましょう。もしその子が、「アメリカ・ニューヨーク、屋台、ホットドッグ」というようなことばを知らなかったとしたらどうでしょう? おそらく頭の中に場面を思い描くことが出来ず、何が書かれているのか理解出来ないでしょう。
 「まさか、アメリカやホットドッグを知らない子どもはいないでしょう」と思われますか。しかし、それは極端だとしても物の名前を驚くほど知らない子どもたちは少なからずいるのです。そうなると、もう国語は読み方、書き方以前の問題となってきます。文章の中に知らないことばがいくつもあったら、読み方だけでなくことばの意味も教えなければその文章は理解できません。しかし長い文章なら、ことばの説明だけで授業時間が終わってしまいます。
 うちの子は国語が苦手で・・・という親御さんは、お子さんがどのくらい物の名前を知っているのか確かめてみてください。おそらく、当然これは知っているだろうと思うような物の名前を知らないということがあると思います。その場合は、日常生活の中でいろいろな物の名前を丁寧に教えてあげてください。まずは身の回りにある物の名前から覚えていくようにするのが一番です。
 概念語や抽象語を学ぶには、学校や塾のほうがよいかもしれませんが、物の名前を学ぶには家庭が一番です。何より家庭には教室よりもたくさんの実物があって、それらに触れながら名前を学ぶことができます。どうか、お父さん、お母さんが子どもたちの良き先生となって、たくさんの物の名前を子どもたちに教えてあげてください。

2025-10-25 13:44:17

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ますます国語力が必要な時代に

 かつてパソコン(パーソナルコンピュータ)が登場し、ワープロソフトや表計算ソフトなどがさまざまな事務業務で利用されるようになったときに、文字を早く入力出来たり、ソフトを使いこなせたりする人が重宝されました。しかし、パソコンが広く普及し、ワープロソフトや表計算ソフトを使える人が増えてくると、その「操作」ができる人ではなく、それを仕事に「利用」できる人が求められるようになってきました。
 さまざまな機器が発達することによって、かつては技術職・専門職として重宝された人たちの「技術性」「専門性」の価値が下がり、機器を使うことによって、技術や専門知識を持っていない人でもある種の業務が行える時代になってきています。
 一方で、そのように機械化・自動化が進んだ世の中だからこそ、人間にしかできないことが改めて見直され、求められるという時代でもあり、それは機械化が進めば進むほど顕著になってくるのではないかと思われます。
 さて、このことを学習の世界に当てはめて考えてみた場合、これから必要とされるのはどんな分野の学力でしょうか? 例えば外国語を読み書き・話せる能力は、国際化が進んだいまの時代には必要不可欠となってくるに違いありません。一方で、自動翻訳技術の発達によって、機器を使って外国語でのコミュニケーションがとれる時代になってきており、その機能はこれからますます発達していくことでしょう。
 そうなったときに、かつてワープロや表計算ソフトを「操作」できる人から「利用」できる人が求められるようになったように、単に英語の読み書きや会話ができる人ではなく、内容あることを読み取り、書き、話せる能力が求められるようになってくるのではないでしょうか? そう考えたときに必要となってくるのは、やはり国語力ではないか? 私はそう考えています。 
 そしてこのブログで何度も書いてきたように、国語力というものは技術ですから、ただ学んで理解しただけでは使えるようにはなりません。他人の考えを受け取ったり、自分の考えを伝えたりするためには、その方法を学ぶとともに、それができるようになるまでくり返し練習することが必要です。家族が核家族となり近所付き合いも希薄となり、異世代とのコミュニケーションをとる機会が減り、読書離れが常態化し、手紙などを書くこともほとんどなくなったいまの日本の社会を考えたときに、国語という技術の練習不足は否めませんが、そもそもそれ以前の読み書きの方法も十分に理解できていないのではないか・・・。教室で国語を教えていて、そう感じています。
 これからますます国語力が求められることになる。私のこの考えが正しいかどうかは、あと10年、20年先にならないと分からないかもしれません。しかし、それが分かってからでは遅いのではないか。私はそのことを心配しています。

2025-10-18 13:26:01

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「わかった」はゴールではない

 以前からこのブログを読んでいただいている方には、また同じことの繰り返しかと思われるかもしれませんが、大切なことだと思うので再びお伝えさせていただきます。それは反復学習の重要性です。
 これも同じことの繰り返しになりますが、私は勉強もスポーツも上達への道は基本的に同じだと考えています。それは、「理解する」→「反復する」→「身につける」という手順をたどることです。例えばバスケットボールのシュートなら、こう構えて、こう膝を使って、手首をこう返してなどという基本動作をまず理解し、それを何百回(いや何千回かもしれませんが)も繰り返し練習して、やっと一定以上の確率で成功するようになるわけですね。勉強も同じで、頭で理解して、繰り返しノートを見直したり、練習問題を解いたりして、やっと試験のときに答えられるようになるわけです。頭で理解して「ああ解った」で終わりではありません。   
 ところが、スポーツではみんな繰り返し出来るようになるまで練習するのに、勉強では繰り返し練習する人はきわめて少ないのです。一つには、スポーツの動作というのは種類があるといっても数が限られていますが、勉強で学ぶことは種類も多く、一つのことを繰り返し反復する時間をとれないということがあるかと思います。それでも試験で頻出するような内容というのはあるわけで、仮にそれだけでも反復しておけば好結果につながる可能性が高いわけです。ですが、そういう頻出事項でさえ、実際にはなかなか身についていない生徒が多いのです。
 例えば、文語に「完了・存続」の意味を表す「り」という助動詞があります。この助動詞はとても特殊な接続をする助動詞で「四段活用」動詞の「已然形(命令形という説もあり)」にくっつきます。数ある助動詞の中で已然形に接続するのはこれだけなので、試験に頻出する助動詞です。けれども、文中にこの助動詞が出てきたときにぱっと「完了・存続の助動詞『り』」だと判断できる生徒は意外に少ないのです。私の教室の授業では3度か4度は念押ししているのに、それでも大半の生徒が気づかないということも少なくありません。助動詞一つとってもこれですから、他の重要事項についても推して知るべしです。
 いずれにせよ、勉強もスポーツと同じように「解った」がゴールではないということを意識しておきましょう。停滞を打開するためには意識の改革が必要です。なかなか成績が上がらないと悩んでいる人は、自分の練習不足をまず疑ってみましょう。そして練習不足を実感したときは、迷わず練習をしましょう。例えば、大切だと思うことはもう一冊別にノートを用意して、授業のノートからその部分だけを書き写してみてはどうでしょうか? 次々新しいことを学ばなければならない中で、すでに習ったことを反復練習する時間を作るのは大変です。でも、毎日10分・15分ぐらいの時間を割くだけでも、練習できることはたくさんあります。電車の待ち時間、朝目覚めて朝食を食べるまでの時間、寝る前の時間などちょっとした隙間時間を利用して反復学習の時間を作りましょう。その10分の積み重ねが3ヶ月後、半年後にはきっと大きな成果となって現れます。本当ですよ。

2025-10-11 11:58:23

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あの世のお話

 今回は国語の話題から離れてあの世のお話について書かせていただきます。こんなことを書きたくなったのは、ちょうど今日、母の一周忌を行うことになっているからかも知れません。
 一つ目は、亡くなった人の思い出話をすると、天国でその人の周りに花が降り積もるというお話。私はこの話を、NHKで放映されていた『母の待つ里』というドラマの中の僧侶の台詞で知りました。それもつい最近、夜中に再放送されていたこのドラマをたまたま見たのがきっかけです。そのあと気になってインターネットでこの話の出典を調べてみましたが、はっきりとした出所は分かりませんでした。でも、とても素敵なお話なのでたくさんの方に紹介したいと思って、いまこうして書いています。もっとも私自身は母が亡くなって半年ぐらいは、母の話をするのも聞くのもつらくて、もしもっと早くにこのお話を知っていても、おそらく母の思い出話をするのはとても無理だったと思います。今日の一周忌では、お寺さんや義兄や姉、叔父、叔母たちと母の思い出話をして、あの世の母にたくさん花びらを降らせたいものです。
 もう一つは、地獄と極楽にある長い長い箸のお話です。地獄でも極楽でも食事時にはご馳走が山のように出るのだそうです。しかし、天国の人たちがふくよかなのに対して、地獄の人たちは痩せこけている。なぜなら、箸が長すぎて口に食べ物を入れようとしても入らないからです。では、天国の人はなぜふくよかなのか? 天国の人たちはその長い箸で食べ物をつまむと、向こう側にいる人の口へ食べ物を入れてやる。そうすると今度は向こう側の人が自分の口に食べ物を入れてくれる。そのように互いの口に食べ物を入れ合うので、箸が長くてもちゃんと食べることが出来るのだそうです。こちらの方は仏教の説話に(これもはっきりとした出典までは調べられていないのですが)あるようです。もっともこの話も私は山本鈴美香という人の『エースをねらえ』というもう40年以上も前に書かれた漫画で知りました。
 二つとも本で読んだのではなくて、テレビや漫画で知ったというのは国語を教える者としてはお恥ずかしいかぎりですが、私は出所はどうあれ、いいな、素敵だなと感じたお話やことばは人に伝えていきたいと考えています。それは種蒔きのようなものです。蒔いた種が誰かのこころで花開き、またその人が別の誰かに種を蒔く。そのようにして花畑が広がっていくのは素敵だと思われませんか。
 このブログを読んでくださった方々も、素敵なお話、ことばを知ったら、ぜひ誰かに、特に子どもたちに聞かせてあげてください。それは種蒔きであると同時に、種を芽吹かせる土壌を育てることでもあります。私の父や母も、子どもの頃から私にたくさんの話を聞かせてくれました。
 お父さん、お母さんの蒔いたお話、ことばの種がいつか子どもたちのこころで花開くことを祈りながら、今日のブログをおしまいにいたします。

2025-10-04 07:55:37

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国語の授業に関して思うこと

 国語という教科を扱っていて、いろいろ残念に思う点が多々あります。特に中学・高校の国語の授業については、もっと複合的なものに出来ないものかとずっと思い続けています。この教室を始めたときには、少しでもそれに近い授業が出来ないかと考えましたが、現実には週1回か2回の授業で、しかも定期試験が控えているとなると、なかなか難しくて、挫折したまま今日に到っているというのが正直なところです。
 一口に国語力といっても、話す能力にすぐれている子ども、読解する能力にすぐれている子ども、創作する能力にすぐれている子どもなど、分野を区切れば得手不得手があります。もちろん言語能力というのは総合的なものなので、一定の言語能力が育っていなければこのどれもが苦手な子どももいるでしょう。しかし、大部分の子どもたちは、それぞれに好き嫌いがあり、得手不得手があり、どれも得意だという子はごく一部だと思われます。
 ですが、中学・高校の試験で測られる国語力はほぼ読解力だけです。幅広い国語力の中で、この一部の能力だけで国語力を判断し、
評定をする。果たしてこれでいいのでしょうか。もっとも現実問題として話す力をどう評価するのか、創作力をどう評価するのか、果たして客観的な評価が可能なのかという問題はあります。(私はある一定の評価基準を設ければ可能だと思っていますが)問題は、読解力という一部の能力の評定によって、子どもたちが「自分は国語が得意だ」とか「自分は国語が苦手だ」とか思い込んでしまうことです。たしか言語学者の金田一秀穂先生の著書に「国語学者より大阪のおばちゃんのほうが国語力が上?」というような小見出しがあったと思いますが、評価基準を変えれば、そういうことも言えるのではないでしょうか。
 まあ、私もこの国語塾を生業としていますから、国語力はすべての教科の土台だとか、入試は国語力が鍵を握るとか、ブログにも書きますし、保護者にも話します。もちろん出鱈目ではありませんよ(笑)でも、そんなことよりも、ことばというのは人間が生きていくうえでは必要不可欠なもので、人との交流はもちろん、自分一人で何かを考えるときにもことばを介さずに考えることなど不可能なことなのです。その大切な大切なことばというものを学ぶのが「国語」という教科です。だから、本来は好きとか嫌いとか、得意とか不得意とかそんなことではなく、よりよく生きるために国語を学ぶべきだと私は思います。
 もちろん入試のことを考えれば、いまの国語の評価の中心である読解力をつけなければ合格出来ないので、その力をつけていく必要はあります。でも、それが国語のすべてじゃないということを多くの人に認識してもらいたいのです。日本一の国語教師と呼ばれた大村はま先生は「子どもにとって優劣のかなたで学びひたる体験が大切だ」と説いておられます。子どもたちが、好き嫌い、得意不得意、ということを超えて、学びひたれる、そんな国語の授業を行政、学校、教師、保護者、生徒たちたちと作りたい、私はそんなことを願っています。

2025-09-27 11:21:43

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