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ことばの暴力から子どもたちを守るために

ことばの暴力から子どもたちを守るために

 学校での学習は「書き言葉」が中心であり、書き言葉の力がないと、どの教科の理解も難しいということを前々回のブログに記しました。今回のブログでは、これに関連して、もう一つ別の視点から書き言葉の学習の必要性についてお伝えしたいと思います。
 
 パソコンやスマートフォンなどを用いて、ことばや画像をやりとりするネットワークサービスが発達し、大人のみならず子どもたちもそれらを利用する時代となりました。
 中でもコミュニケーションツールとして、「ライン」や「X(旧ツイッター)」はとても手軽な通信手段です。私も保護者の方々への連絡手段として、ラインを利用することがあります。
 ところでこのラインやXがこれだけ多くの人に利用される要因の一つは、これらを使って発信されることばが、とても「話し言葉」に近いということだと思います。メールならちょっとした文章でも何度か打ち直したり推敲したりしてから送信しますが、ラインやXはほぼ話し言葉のように思いついたままことばにして送信するということが多いのではないでしょうか? 双方向通信であることや、間違えたら、また送信し直せばいい(文章としての体裁を気にしない)という感覚も話し言葉に近いと感じます。
 ところが、話し言葉に近いとはいっても、話し言葉とは大きな違いがあります。それは文字として残るということです。その意味ではラインやXで発信されることばも書き言葉ですが、一方で手書きや印刷された書き言葉とは違う大きな特徴があります。それは瞬時に、膨大な数の人に向けて拡散が可能だということです。これはラインやXだけでなく、ネットワークサービスで発信される情報すべてに言えることですが、問題はラインやXで綴られる文字は話し言葉感覚の、ほとんど推敲されていないことばだということです。誹謗中傷のことばに到ってはまさに凶器です。発信される前に、あるいは拡散される前に、なんらかの推敲があれば、人を死に追いやるまでの苛烈なことばの暴力とはならずに済むこともあるのではないでしょうか。
 こうしたことばの暴力から子どもたちを守る手段として、情報リテラシーの教育だけでなく、ことばそのものの教育が必要だと思うのです。仮に話し言葉のようにとっさに口にすることばであっても、良質なことばを読み書きすることの出来る素地があれば、ネット上に拡散されている極端な言論を鵜呑みにはしないし、自分がそうしたことばを発信することもないと考えます。
 その素地をつくるのは、やはり書き言葉の修練だと思うのです。教科書や試験問題、また文学差品や評論文などに綴られていることばは吟味されたことばです。公にされる文章でなくても、例えば個人でも、手紙やメールを、話し言葉を発するようにすらすら書くことの出来る人はほとんどいないでしょう。ことばを文字として綴るということは難しいことであり、立ち止まって考えないかぎり出来ないことです。この立ち止まって考えるという習慣が、ことばの暴力から身を守ることにつながると私は考えています。
 そのためには、そういう書き言葉をたくさん読んで、自分のことばの引き出しを豊かにしていく必要もあるでしょうし、自分で文章を書いて、考えながらことばを発する習慣を育てていく必要もあります。
 どうか国語学習を通じて、書き言葉の力を育てていってください。
 

2025-02-08 12:01:21

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