この塾を始めるときに、わたしは、「国語力にもっとも大きな影響を与えるのは家庭環境である」と考えていました。18年間国語の塾をやってきて、その考えが正しかったかというと・・・正直よく分かりません。「わたしはこの子の小さいころにずいぶん読み聞かせもしたんですが、国語ができるようにならなくて・・・」というお母さんもいました。双子は同じような環境で育っているはずなのに、国語力に差がある、という場合もあります。兄弟3人のうち、1人だけ国語ができないということもあります。結局のところ、学力というものは何か一つの要素だけではなくて、さまざまな要因が複雑にからまりあっているものなので、何がどうならばどうなる、何をすればどうなる、というような単純なものではないということなのでしょう。
だからと言って、家庭での取り組みが無駄だということはないと考えます。では、何をすれば・・・そう尋ねられるとなかなか簡潔には応えられないのですが、まず私がこの教室での指導の基本としている考えを二つお伝えします。一つ目。長い時間をかけて身につける。本来ことばというものは、毎日毎日少しずつ新しいことばに出会い、くり返しそのことばを使いながら、一つ一つ身につけていくものです。わたしは茶道を習っていましたが、師匠から「点前(茶道の所作)というものは覚えるのではなく、身体にしみこませていくもの」と教えられました。ことばも同じだと思います。二つ目。副作用の少ない方法をえらぶ。よく効く薬には強い副作用があることが多いように、飛躍的な効果のある指導にも副作用があるとわたしは考えています。世の中には1秒で1ページ読めるなどの『超速読』なる手法も喧伝されてはおりますが、わたしは試験時間内に問題が解けるだけの読解速度が育てば、それで充分だと考えています。
さて、上記の考えをふまえて、家庭でできる国語学習の取り組みとして、今回は会話の工夫を提案いたします。お子さんが本を読まないとすれば、家庭で国語を学ぶ機会は家族との会話かテレビやパソコン・スマホなどの視聴以外にありません。しかし、前々から申し上げているように、これらは「話し言葉」の世界です。当教室では、熟語をつかって文を作るという練習を比較的よく行います。すると、助詞の使い方を間違っていたり、サ行変格活用で使うべき語を形容動詞として使っていたり(「姉は高校に合格だ。」のような文)、逆に形容動詞で使うべき語をサ変動詞として使っていたりすることがままあります。この原因の一つは、話し言葉を中心として日本語を身につけてきたということではないかと考えます。会話ではしばしばことばの省略が行われ、それでも充分意思疎通ができます。例えば、「それ取って」(「それを取って」)、「そこ置いといて」(「そこに置いておいて」)など、日常会話は指示語と助詞の省略のオンパレードです。また、日常会話は漢語と和語があれば和語、二字熟語や三字熟語を一字の漢字で表せればそちらを使うのが自然です。「その牛乳の賞味期限確認した?」と言うよりも「その牛乳、賞味期限確かめた?」のほうが、「お母さんは、あんたの成績を見て落胆したわ」よりも「お母さん、あんたの成績見てがっかりしたわ」のほうが自然ですから、評論文で出てくるような熟語に触れる機会はほとんどありません。
そこで、日常の会話をあえて書き言葉的にしてみるのです。幼児や低学年のお子さんのいるご家庭では、助詞を意識的に補って話すようにします。「おやつ食べる前に手え洗いなさい」を「おやつを食べる前に手を洗いなさい」と言ってみたり、「もう宿題すませたんか」を「もう宿題はすませたんか」にするということです。高学年や中高生のお子さんには、あえて難しいことばを使ってみます。「期末試験の成績は残念やね」を「期末試験の成績は遺憾やね」と言ってみる。「そんな服着て友達の家へ行きな。かっこ悪い」は「そんな服着て友達の家へ行きな。体裁が悪い。」や「そんな服着てよそへ行くな。世間体を考えよ」とか子どもが使わなそうなことばにする。「体裁てなに?」と尋ねられたらしめたものです。そこで一つことばの意味を教えられます。もっとも、中学生ぐらいになると、ことばの意味が分かっていようといまいと親のことばなどスルーされてしまう可能性もありますが(笑)。
いずれにしても大切なのは、「意識する」ということだと思います。書き言葉に比べて話し言葉は、どうしても無意識に使いがちです。それを少し意識化して使うことで、会話の質が変わってきます。仮にお子さんの国語力が上がらなかったとしても、親御さんの国語力が上がります。それはそれで素敵なことだと思いませんか。
2025-02-22 13:36:52
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