当教室を開講したばかりの頃、母校の智辯学園和歌山中学高等学校で4年間非常勤講師として教壇に立たせていただきました。4年目に担当した生徒たちは、中学1年のときに担当した生徒たちで、ある日、何がきっかけかはわすれましたが、「中1のときに○○という文章を勉強したね」と話すと、みんなきょとんとした顔をしています。もちろん3年前に学習した文章をすべての生徒が覚えているとは思いませんが、どうもほとんどの生徒が記憶にないらしいのです。
私は国語でもっとも大切なことは、ことばや文章との出会いだと思います。人との出会いが人生の糧になるように、国語でことばや文章と出会うことが出来れば、きっとその人の人生の糧になると思うのです。
姉が夫の仕事の関係で長野県の佐久市に住んでいた頃、両親と小諸市にある島崎藤村記念館を訪れたことがあります。そのとき父が、「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」という藤村の詩の一節を唱えて、高校生のときの国語の授業の話をしてくれました。先生がこの詩を朗読して、特に何の説明もせず、ただ「いいですねえ・・・、いいですねえ・・・」とだけ言ったのだそうです。私はこの先生の授業はすばらしいと思います。その先生は、父と藤村の詩をちゃんと出会わせたのです。だから、50年近く経っても、父はその詩の一節を唱えることが出来たわけです。そしてそれは紛れもなく父の人生の糧であると言えるでしょう。
特に中高生を教えていて懸念することは、彼らがまるで保険の契約書を読むように、ことばや文章と接しているのではないかということです。もっともこれは教える私のほうの問題かもしれません。試験を意識してしまい、とにかく正確に読んで、正確に書く力をつけてもらいたいと思うあまり、そもそも私の授業が保険契約の説明のようになっているのかもしれません。
もちろん読解力や記述力は必要です。しかし、それが国語の授業の一義かというと、どうも違うなあ・・・というのが私の正直な思いです。ある教材を学習して、仮に試験の点数が高かったとしても、その文章の内容や印象が残っていないとしたら、本当にその文章を学んだことになるでしょうか。
生徒たちの国語の点数があがるようにする、試験に合格するように尽力するのは当然ですが、たとえわずかでも生徒たちとことばや文章の出会いが取り持てたら・・・私はそんなことを願っています。
2025-03-01 11:15:00
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