どうもブログを書けば書くほど、「この教室へ子どもを通わせよう」というより、「この教室へ子どもを通わせるのはやめておこう」というご家庭が増えていくような気がします。おそらく保護者の方の多くが求めておられるのは、「国語のもつセレンディピティーを信じませんか」よりも「国語こそが志望校合格の鍵だ」とか「これが国語学習のポイントだ」とかいう明快なことばでしょう。さらに言えば、知りたいのは「○○高校に何名合格」「合格率○○%」とかいう数字や実績であって、国語の学習が何の役に立つとか、どんな効果をもたらすとかいうことではないかもしれません。
でもね、子どもたちはともかく大人である親御さんたちが、そういう分かりやすく明快なフレーズを求めるのはどうなんでしょう? むしろ子どもたちに、そういうフレーズを鵜呑みにするのではなく、立ち止まってよく考えてみようと諭すのが大人ではないでしょうか? そして、立ち止まって考える力を育てるのが国語という教科ではないかと私は思っています。そういう意味では国語力というのは、子どもたちだけではなく大人にも必要なもので、子どもたちには大人になっても活かせる国語力を身につけてもらいたいのです。
あるとき作家の高橋源一郎という人がラジオで哲学者や評論家として知られる鶴見俊輔の著作について語っているのを聞きました。その話がとても素敵だったので、ご紹介します。その文章は岩波現代文庫の『教育再定義への試み』に記されています。少しかいつまんでお伝えします。
小学校一年生の算術の時間のはじまりに、先生が黒板にチョークで白いまるを書いた。紙が配られて、みんなが同じものを書くように言われ、「できた人?」と聞くと四十人の生徒のほとんどが手を挙げたが、一人だけ手を挙げない子がいた。先生はその子のそばに行って黙って見ていて、感心していた。その子の仕事が終わるまで待って、「○○君はこういうまるを書きました」と言って彼の書いた紙をみんなに見せた。そこには黒のべたぬりの上に白いまるがぬいてあった。
どうです? この子も先生もすごいと思いませんか? これ算術(算数)の授業の話ですけど、ここで働いているのは国語の力だと思うのです。物事を多角的にとらえる力、それを評価する力、簡単に割り切らない力、私は国語の学習を通して生徒たちにそういう力を身につけてほしいと願ってします。
と、ここまで書いてまた私は「やっぱりここはやめておこう」というご家庭を増やしてしまったような気がしています。いつまで経っても小さな小さな国語教室なんだろうな……。でも、それが国語塾いはら教室です。
2025-05-31 08:21:31
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