国語という教科を扱っていて、いろいろ残念に思う点が多々あります。特に中学・高校の国語の授業については、もっと複合的なものに出来ないものかとずっと思い続けています。この教室を始めたときには、少しでもそれに近い授業が出来ないかと考えましたが、現実には週1回か2回の授業で、しかも定期試験が控えているとなると、なかなか難しくて、挫折したまま今日に到っているというのが正直なところです。
一口に国語力といっても、話す能力にすぐれている子ども、読解する能力にすぐれている子ども、創作する能力にすぐれている子どもなど、分野を区切れば得手不得手があります。もちろん言語能力というのは総合的なものなので、一定の言語能力が育っていなければこのどれもが苦手な子どももいるでしょう。しかし、大部分の子どもたちは、それぞれに好き嫌いがあり、得手不得手があり、どれも得意だという子はごく一部だと思われます。
ですが、中学・高校の試験で測られる国語力はほぼ読解力だけです。幅広い国語力の中で、この一部の能力だけで国語力を判断し、
評定をする。果たしてこれでいいのでしょうか。もっとも現実問題として話す力をどう評価するのか、創作力をどう評価するのか、果たして客観的な評価が可能なのかという問題はあります。(私はある一定の評価基準を設ければ可能だと思っていますが)問題は、読解力という一部の能力の評定によって、子どもたちが「自分は国語が得意だ」とか「自分は国語が苦手だ」とか思い込んでしまうことです。たしか言語学者の金田一秀穂先生の著書に「国語学者より大阪のおばちゃんのほうが国語力が上?」というような小見出しがあったと思いますが、評価基準を変えれば、そういうことも言えるのではないでしょうか。
まあ、私もこの国語塾を生業としていますから、国語力はすべての教科の土台だとか、入試は国語力が鍵を握るとか、ブログにも書きますし、保護者にも話します。もちろん出鱈目ではありませんよ(笑)でも、そんなことよりも、ことばというのは人間が生きていくうえでは必要不可欠なもので、人との交流はもちろん、自分一人で何かを考えるときにもことばを介さずに考えることなど不可能なことなのです。その大切な大切なことばというものを学ぶのが「国語」という教科です。だから、本来は好きとか嫌いとか、得意とか不得意とかそんなことではなく、よりよく生きるために国語を学ぶべきだと私は思います。
もちろん入試のことを考えれば、いまの国語の評価の中心である読解力をつけなければ合格出来ないので、その力をつけていく必要はあります。でも、それが国語のすべてじゃないということを多くの人に認識してもらいたいのです。日本一の国語教師と呼ばれた大村はま先生は「子どもにとって優劣のかなたで学びひたる体験が大切だ」と説いておられます。子どもたちが、好き嫌い、得意不得意、ということを超えて、学びひたれる、そんな国語の授業を行政、学校、教師、保護者、生徒たちたちと作りたい、私はそんなことを願っています。
2025-09-27 11:21:43
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