国語の教材や試験で採用される文章には現在のリアルタイム(令和)の自然の風景や文物が登場することはほとんどありません。反対に現代国語であっても、平成どころか昭和もっと遡って明治の時代の知識がないと読めないものがたくさんあります。
こうしたものをいまの子どもたちが知らないのは当然です。すでに子どもたちの親の世代でも、見たことも聞いたこともないような物や習慣が、文章の中にたくさん出てきます。
理不尽に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは無理もないことです。例えば、自家用車でさえ一般的になったのは、わずか五十年ほど前のことに過ぎません。それまでは多くの人が自分の足で長い距離を歩いていたのです。スマートフォンなどという、いまでは当り前に使われるようになったものが登場したのも、ごく最近のことです。だから、そういった新しい時代の文物や習慣をテーマとしたり描いたりした文章で、子どもたちの教材とするにふさわしい、あるいは入試問題として妥当であるというような定評のある文章はまだまだごくわずかなのです。そうなれば、教科書に採用する文章にしても、入試に採用する文章にしても一昔前に書かれ、そしてすでに一定の評価がなされている作品となるのは仕方のないことです。
つまり、いまの子どもたちが国語を理解するためには、歴史的ともいえる知識が必要だということです。もちろん私たち指導する側も折に触れて、こういった知識を子どもたちに説明はします。でも、それがあまりにも多すぎて授業の中だけでは追いつかないのが現状です。
一方で時代が変わろうとも変わらない自然や習慣や文物もたくさんあります。月や星などの姿は、何千年も変わっていませんし、気候変動が大きいとはいえ、夕立だって時雨だって降るし、霜だっております。食べ物だって、昔から変わらず食べている物はたくさんあります。野球やサッカーなどのスポーツの基本ルールが変わったわけでもありません。
しかし、こういった身の周りの自然や物、文化などについて驚くほど知識のない子どもも少なくないのです。例えば、「霜」を知らないという子どもがいて、スマートフォンで画像を見せて見たことはないかと聞くと「見たことがない」と言います。いくら温暖な和歌山だからといって、そんなはずはないと思うのです。では、なぜ知らないのか? それは霜を見たときに「これが霜だ」と教えられていないから、いわば経験に「名前」というタグ付けができていないために記憶に残っていないということだと私は考えています。
そこでお父様、お母様方にお願いです。少なくとも日常生活で体験する、自然現象、行事や習慣や使用する物などに関しては、できる限り「名前」を教えてあげてください。子どもがたくさんの物に触れ、経験を積んでも、それに「タグ付け」ができていなければ、記憶として定着しづらいし、まして知識として使えるものにはなりません。教室という限定された空間で画像や映像を見せたところで身につく知識など微々たるものです。子どもたちは日常のなかでその何百倍もの物に触れ、経験を積んでいるのです。それを知識に変えられるのは、学校の先生や塾の講師よりもむしろお父様、お母様方です。
生活するうえで、学ぶうえで基本となる知識が常識です。家庭こそが常識を学ぶもっともすぐれた場所だと私は考えていますが、保護者の皆様はどうお考えでしょうか。
2025-12-06 15:41:46
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