「国語はすべての教科の根幹であり、国語ができないと他の教科の成績も伸びない」とは、よく言われることです。ただ、国語ができないと他の教科もできないから国語を学ぶべきというのは違うと思います。それでは国語は成績を上げるための「手段」であるということになります。
例えば、魚を得るために、釣りをする、網をしかける、銛で突く、これらが手段です。ただ、単に魚を得るためなら、自分の予算とスキルと時間との兼ね合いを考えて、もっとも確率の高い方法を選べばいいわけです。そして、「志望校に合格する」というただ一匹の魚を得るのが目的なら、その一匹の魚を手に入れた時点で、釣り竿も網も銛も不要となります。だから、仕事や趣味で学んだ知識や考え方をつかう必要のない人は、「手段」として学んだことをほとんどわすれてしまいます。
日常生活で、覚えた英単語をわすれてしまっても、数学の公式をわすれてしまっても、それほど困ることもないでしょう。国語だって同じではないか、難しい漢字などわすれてしまっても何一つ困ることはないではないかと思われるかもしれません。
しかし、国語で学ぶ「ことば」というものは、人間が生きていくかぎり一生つかい続けるものです。人間は、ことばと無縁に生きていくことなどできません。仮に国語で学んだことばが志望校に合格するというただ一匹の魚を得るための手段だったとしても、それらを完全に捨てさることはできないし、生きているかぎり、こころという家には新しいことばが増え続けていきます。もしそれが不要だというなら、こころの家はごみだらけということになってしまいます。
国語の学習というのは、そうしてこころの家に増え続けていくことばを、ごみの山にしないための勉強でもあると私は考えています。さらに言えば、「ことば」は、志望校に合格するという魚を得るためだけでなく、いろいろなものを得るためにもつかえるのです。考えてもみてください。友人を得るのだって、仕事を得るのだって、伴侶を得るのだって、ことばをつかうのです。もっとも伴侶については独身の私が言っても説得力はないかもしれませんが(笑)
だから私は、国語はけっして何かの手段ではないと思っています。国語そのものが目的とは申しませんが、目的を果たしてしまったら価値を失うものではなく、目的を果たし終えてもなお価値を有するものです。もちろんこれは国語に限ったことではなく、英語にせよ数学にせよ、本来学びというものはそれ自体が価値をもつものでしょう。その意味では子どもだけでなく、大人が学ぶことにも大きな意義があります。何を学ぶか? もちろん私は国語をお勧めします。
2025-12-13 13:34:31
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